選挙結果…かなしみは深く、怒りはくすぶったままだった

けっきょくそういうことだったのかなあ、と思う。

いつどんな時代であれ、人の心に「かなしみ」は深く息づいている。

生きてあることの「かなしみ」こそが人類の歴史を進化発展させてきた、と僕は思っている。それはもう、直立二足歩行の起源のときから考えてもそうだったのだ。原初の人類が二本の足で立ち上がることは、猿としての能力すなわち生きる能力そのものを「喪失」する体験だったのであり、その「喪失感=かなしみ」を埋めるようにして進化発展してきたのだ。

「喪失感=かなしみ」を抱きすくめるということ、そうやって民衆は権力者に支配されることを受け入れてゆく。それはもう、古代から現在までずっとそうだ。

民主主義とは「民衆が支配する」ということではない。民衆は支配者にはならないし、なれない。民衆とは支配されることの「喪失感=かなしみ」を抱きすくめているものであり、何よりわれわれは、この世に生まれてきてしまった、という「喪失感=かなしみ」を抱きすくめながら生きている。

今回の選挙の投票率が48・8パーセントだったということは、民衆の「かなしみ」は深く沈潜し、「怒り」はくすぶったままでいる、ということを意味している。その思いが表面にあらわれてこないことには、れいわ新選組のさらなる躍進はない。

けっきょく、いつも選挙に行っている人しか投票しなかったのだ。自民党の得票数なんか、全有権者の20パーセントにすぎないし、既成の野党の得票だってとくに増えたというわけでもない。

どうしてこんな無風の選挙になってしまったのか。

与党の側の作戦が功を奏したということもあるが、既成の野党に風を起こすだけの魅力がなかったからだ。

 

 

とくに立憲民主党枝野幸男には、ほんとうにがっかりした。自分たちの党勢を拡大することだけを考えて、新しい風を起こそうとする努力をまるでしなかった。

きちんとした野党共闘をするためには、すでに国民から見放されている国民民主党なんか潰してしまうべきだったし、共産党とのちゃんとした信頼関係を構築するべきだった。世の中には共産党に対する拒否反応がまだまだ強く残っている、などといわれるが、それは保守勢力のプロパガンダであって、野党に好意的な者たちはそれほどでもないし、立憲民主党が率先して手を組んでいけばそんなアレルギーもいよいよなくなってくる。しかし当の立憲民主党には、わが身を捨ててでも野党の共闘関係を構築しようとする意気込みがまるでなかった。お利口ぶって「他党のことには関知しません」だってさ。ばかばかしい。

僕はこれまで立憲民主党の党首や幹事長の記者会見はずっとYOUTUBEで見てきたが、もう見る気もしなくなってしまった。

けっきょく枝野幸男は、公的にも私的にも「自分の世界」を守ることしか考えていない。政治は、どんないい人だろうと、そんなマイホームパパのするものではない。そんな正しい人格者がするべきことではなく、もっとやくざな世界なのだ。一瞬先は闇の、地雷の上を進むような心意気のある人間、すなわちわが身を投げ捨ててでも何かを成し遂げようとする「勇敢で魅力的な人間」に託されるべき世界であり、それはもう歴史が証明している。アレキサンダーでもシーザーでもジャンヌ・ダルクでもナポレオンでも織田信長でも、みんなそうではないか。彼らみな、「英雄」であると同時に、歴史の「生贄」でもあった。そういう「生贄」になろうとする心意気が、山本太郎にはあって、枝野幸男にはまるでない。立憲民主党の党勢はわずかに拡大したが、けっきょくむざむざと自民党に勝たせてしまった。「万年野党でいるつもりか!」と山本太郎が怒るのも無理はない。

山本太郎は、既成政党の右からも左からも袋叩きにあいながら、それでも困窮する民衆のために立ち上がろうとした。政治にはそういうやくざな心意気が必要なのであり、そこに多くの聴衆が感動した。

ここまで来たらもう、選挙に行かない民衆の感動を結集して選挙に行かせなければ、このひどい世の中は新しくならない。

 

 

東浩紀が「れいわ新選組の消費税廃止論なんてまるで実現するはずのないことを掲げて民衆を煽るポピュリズムだ」といっていたが、たとえ有名なインテリであっても経済学においてはただのド素人にすぎない人間が、何を偉そうなことをいっているのだろう。

現在の積極財政論やMMTの経済政策論は、プロ・アマ問わずこうしたわけしり顔の「実現不可能」という言説によって、寄ってたかって批判され続けている。つまり、アマチュアのくせにそのようなしゃらくさいことをいいたがることこそ、どうしようもないポピュリズム以外の何ものでもない。つまり「消費税廃止不可能論」こそ、アマチュアでも容易に飛びつくことのできるポピュリズムなのだ。

現在のMMTは、貨幣や金融の本質をちゃんとわかっていないことには理解できない理論であり、知ったかぶりのド素人が既存の俗説を振り回してどうのこうのといえる話ではないらしい。

れいわ新選組における経済問題のエキスパートである安富歩も大西つねきも、消費税廃止に「実現不可能」という理論的な問題など存在しないといっているわけで、そもそもこれは世界中の経済学者を二分している問題なのだ。

また山本太郎にしても、どのようにして廃止してゆくかということをこと細かく説明しており、ただの口から出まかせのほら話のようにおもしろおかしく煽り立てているわけではない。何がポピュリズムなものか。とくに現在の金融経済のしくみをどうするかということは世界中の経済の専門家たちが等しく直面している問題であり、これはもう「人類社会はどのようにして成り立っているのか」という哲学の問題でもある、と安富歩や大西つねきはいている。彼らがなぜ山本太郎の誘いに応じたかといえば、東浩紀より山本太郎のほうがずっと高度に哲学的な思考をしている存在だからだ。

まあポピュリズムとは「生きられる凡庸な健常者(=市民)」たちが自分たちをより生きやすくさせるための自意識過剰のエゴイスティックな思想であり、それに対して山本太郎は、わが身を捨てて「生きられないこの世のもっとも弱い者」たちが生きられる社会の実現を目指しているわけで、「政治家がこの理想=ヴィジョンを失ったらおしまいではないか」といっている。

 

 

安富歩がいうように、たしかに現在のこの社会は狂っている。

愚かな総理大臣がいて、そのまわりに権力の甘い汁を吸おうとしたり自分の立場を守ろうとしたりする者たちが群がっているという景色も吐き気がするほど醜悪だが、さらにその下には充足しきった「凡庸な健常者(=市民)」のエゴイズムやナルシズムがうっすらと層を成して広がっているのも大いに気味が悪い。まさに現代の社会システムの、「スリラー」であり「オカルト」だ。

あんなにもひどい権力者たちがいてこんなにもひどい世の中になってしまっているのに、それでもまだ変わろうとする動きが大きくなってこない。もちろん社会現象としてれいわ新選組は大健闘したが、投票率の低さとともに既存の社会システムは安泰のままの選挙結果になっている。

残念ながら、れいわ新選組といえども、選挙に行かない無党派・無関心層を呼び込むことはできなかった。それは、彼らがあまりにも政策にこだわりすぎたということもある。四方八方から「実現不可能」だと揶揄され、それに対する反撃の政策論的説明に力を入れすぎた。そういうことはもちろん国会等の議論の場では必要だが、熱っぽく盛り上がる街宣の場においてはもう、「政権をとれば必ず実現できるのです」といっておけばよいだけだったのかもしれない。

なんといっても選挙はひとつの「祭り=フェスティバル」であり、その「賑わい」を盛り上げるためには、山本太郎をはじめとする各候補者たちの人間的な魅力をもっと浮き上がらせるべきだったのかもしれない。ほんとうにそれぞれが、人としてとても魅力的(チャーミング)だった。だれもが世間の風やしがらみにもまれて生きてきた人たちなのに、だれもが純粋で美しい魂を失っていない人たちだった。つまり、現代社会のシステムに心の芯が汚されていないというか、そういう部分は実は誰の中にも残っているはずであり、すでにそこにおいて共感の輪が広がりはじめているともいえるし、もっと広げないといけない。

 

 

人々の心の中に残る純粋な魂、すなわち民衆の「怒り」と「かなしみ」が露出してこなければ新しい世の中にはならないわけで、そういうことが起き始めている兆候としてれいわ新選組のブームが起きた。

残念ながら今回の選挙では既成勢力の壁にさえぎられて奇跡を起こすまでには至らなかったが、彼らの選挙活動に参加した人々は決して悲観も絶望もしていないに違いない。風穴は、確かに空いたのだ。現在の社会システムの醜悪さと不条理に人々は気付きはじめている。

彼らは、この世の美しいものとしての弱いものや子供や自然との関係を大切にしよう、取り戻そう、と訴えたのであり、それに多くの人々が共感した。そういう関係を壊してしまっていいはずがないし、壊してしまっている人間たちが大きな顔をしてのさばっているなんて、変ではないか。そういう世の中だから、ネトウヨたちがまるで正義の側に立っているかのような顔をして恥ずかしげもなくヘイトスピーチフェイクニュースをまき散らしている。

どうしてこんなひどい世の中になってしまったのだろう。

社会のシステムに呑み込まれてどんよりと充足してしまったら、新しい社会など生まれてくるはずがないし、かなしいことにそんな若者たちもたくさんいる。れいわ新選組は、そんな若者たちを覚醒させることができるだろうか。たしかにどうしようもない若者だが、若者は大人よりもずっと「可塑性」を持っている。彼ららは、これからどんどん変わってゆくのだ。今の若者たちの40パーセント以上が与党支持だといっても、彼らが10年後も同じだとは限らない。

ともあれ現在の総理大臣をはじめとして、あのどんよりと充足してしまっている者たちの振り回す正義なんて、ほんとうにろくなもんじゃない。

こんなひどい世の中の正義なんて、正義であることそれ自体が醜悪で愚劣なのだ。

日本人であることを失った者たちが「日本人に生まれてよかった」と大合唱してやがる。

日本人である前にひとりの「人間」ではないか。人間である前に一個の「生きもの」ではないか。そこまでさかのぼることができるのが、この国の文化の伝統であり、「日本人」なのだ。

 

 

明治の初めにこの国を訪れたイギリス人の旅行家であるイザベラ・バードは、「この国は国土そのものがひとつの美しい庭園になっている」と書き記している。なのに今や、その「美しい庭園」を経済発展等の名のもとにさんざん壊しまくっている。それはきっとこの国の心を壊していることでもあるのだろうし、壊れてしまった心で壊している。壊すことが正義だと思っている。

なんと醜悪であることか。

差別することが正義だと思っている。

なんと醜悪であることか。

金儲けをすることが正義だと思っている。

なんと醜悪であることか。金持ちが百億円儲けようと貧乏人が10万円働いて稼ごうと、それを正義だと思えば、どちらも醜悪なのだ。貧乏人が汗水流して働いて稼ぐことはいけないことではないし、するしかないことではあるが、正義だと思うことは醜悪だ。正義だと思っているから、年を取って働かなくなると、途端にぼけてしまったりする。働くことから解放されることを怖がっている中高年は意外に多い。そうやって現代社会のシステムから追い詰められ、心も体も壊されてしまっている。

人間なんか、生きていればいいだけなのに。

彼らには、人がこの世に生きてあることに対するときめきや感動がないのだろうか。われわれは、この社会のシステムからそういうときめきや感動が起きないように飼育されてしまっているし、もう一方の飼育されない野生の心を必死に押し殺して生きている。

だれだって死ぬのだから、だれの中にも「生きもの」として野生の心は息づいているはずなのに、現代人は、高度で複雑に張り巡らされた現代社会のシステムの奴隷になってしまい、生まれたばかりの子供のような「野生の心」を失っている。

「野生の心」は、嘆きかなしむ。そして怒り、そしてよろこびときめく。これを「喜怒哀楽」という。この心模様のあやを生きることが日本列島の伝統のはずなのに、現代人は嘆きかなしむことも怒ることもよろこびときめくことも忘れてしまった。街の景観も街が動いている仕組みもそして街の人の心も、どんどん無機質になってきた。そうして、あんなにも愚劣で醜悪な政権に支配されてしまっている。

現代の社会システムは、愚劣で醜悪な政権を生み出すような仕組みになっている。

それでも人が人であるかぎり「野生の心」が消えてなくなるはずがないのであり、現在のこの社会のシステムや現在の政権の醜悪さに人々が気づかないはずがない。醜悪なものに耐えられないのが、日本列島の伝統なのだ。そういう国の候補者であるれいわ新選組の面々は、「もはや世界的に気づきはじめている」と訴えた。

 

 

山本太郎のすごいところは、変な希望的観測はしない、ということにある。「できそうだからやる」ではなく、できるできないを度外視しながら、ただもう純粋に「やるしかない」「やらずにいられない」と思ってやっている。

ほんとうに寄付金が集まるかどうかわからないままたったひとりで党を立ち上げた。そうして選挙間近になって資金のめどが立ち、そこからようやく候補者選びをはじめて10人を立候補させた。候補者たちは、以前から約束を取り付けていたわけではなかったし、三井義文にいたっては初対面の相手だった。ここまではライブ(=即興)でやってきました、と彼はいった。それが可能だったのは、わが身を捨てて活動している彼の人間的な魅力だったのだろう。

特定枠に二人の重度障碍者を置いた。そんなことをしたら自分が当選できるかどうかわからなくなってしまうのに、それでもそうせずにいられなかった。自分が当選することよりもこの二人が国会に行くことのほうがもっと大きな意味と意義がある、と思った。もう、後先(あとさき)かまわずそう思った。

 

 

「ライブ=即興」こそ、人間性の本質なのだ。ほかの動物は、あらかじめ与えられてある能力の範囲で生きている。しかし人間は、思わぬひらめきを獲得し、新しく生きなおすことができる。そうやって進化発展の歴史を歩んできたのだし、何はともあれ原初の人類は、二本の足で立ち上がって新しく生きなおしたのだ。つまり彼らは人類史でもっともラディカルでダイナミックに「新しく生きなおす」ということした人々だったのであり、人類が進化発展することはその起源に戻るということでもある。人類史においては、起源こそ究極の未来でもあるのだ。問題に気付き問題を立て、その答えを発見し導き出すことは、「新しく生きなおす」ということだ。

あらかじめ決められてある解答(=計画)に向かって生きるなんて、猿がしていることと同じなのだ。にもかかわらず現代社会においては、そのように生きねばならない仕組みになっている。あらかじめ決められてある解答を書き込むことしか能のない秀才エリートがつくっている社会なのだもの、そうなるに決まっている。

われわれは、この閉塞状況を打ち破って新しく生きなおす道を発見することができるだろうか。秀才エリートに任せたら、この状況はますますひどくなってゆくというか、秀才エリートに任せたから、こんなことになってしまったのだ。

その答えは、おそらく「生きられないこの世のもっとも弱い者」のもとにある。だから山本太郎は、特定枠に重度障碍者の二人を起用した。

人間の社会は、生きることができる健常者の凡人たちのためにあるのではない。生まれたばかりの赤ん坊や死を間近にした老人や病人や障碍者のような「生きられないこの世のもっとも弱い者」のためにある。そういうものたちを生きさせようとして人類の歴史は進化発展してきたのであり、それは彼らがかわいそうだからではなく、彼らこそが生や死の真実を知っている者たちであり、神にもっとも近い存在だからだ。生や死の真実を知りたいという人間の願いは、彼らを生きさせようとせずにいられない。

彼らは、存在そのものにおいて、この世の「差別」の醜悪さを告発している。現在の社会システムの不条理と停滞を告発している。その不条理と停滞と醜悪さを克服してゆくための答えは、われわれが彼らのことを思うその向こうに横たわっている。

 

 

何はともあれ、「ひどい世の中だ」と思わなければ何も始まらない。平然と差別することが正義であるかのような顔をしてまくしたてることができる世の中なんてろくなもんじゃないし、差別する側の人間たちが支配している世の中なのだから、そうなるのも当然のことかもしれない。だからこそ、あの重度障碍者の二人が「神の死者」として国会に入ってゆくことには、大きな意味と意義がある。

われわれの社会は、新しく生きなおすことができるだろうか?

なんのかのといっても、現在の情況に気づかなかったり見て見ぬふりをしたりしながら「このままでいい」と日和見を決め込んでいる者たちもたくさんいる。そんな停滞しきった「リア充」を生きる者たちがつくる大きく厚い壁が立ちはだかっているが、まずは山本太郎とれいわ新選組がそこに風穴を空けてくれた。

山本太郎のように、泣きながら怒れ、そして突っ走れ。この停滞と不条理は、人間性の真実によって突破されねばならない。人類の進化発展は、希望や計画によって起きてきたのではない。それは、今ここの「嘆き=かなしみ」と「ときめき」によってもたらされたのであり、そこにこそ人間性の自然・本質がある。

今回の選挙結果を受けて「日本死んだ」とか「日本終わった」というような声も多く聞かれるが、山本太郎とれいわ新選組に民衆の熱い支持が集まってゆくかぎり、「人間」はまだ死んでいない。

 

 

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『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

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