人類の悲願

山本太郎現象は本物か」という記事が最新の週刊プレイボーイに載った。やはり確実に世評は盛り上がってきている。最貧層の底上げをするために今は大幅な財政出動をする必要があると主張する彼は、アメリカのサンダース大統領候補と同様に、最近話題の「MMT(モダン・マネタリー・セオリー=現代貨幣理論)」を肯定しているらしい。それが正しいかどうかということなど僕にはわからないし、判断しようというつもりもない。多くの学者の間で賛否両論に分かれているのだから、けっきょくやってみないとわからない、ということだろうし、やる度胸があるかないかの問題でもあるのだろう。

すべての予見の成否は後になってからわかるだけで、あらかじめの否定論はいつだって出てくる。

経済学者のいうことなんか当たるも八卦で、ほとんどは予測通りになっていないし、たとえ不景気になっても自分たちの現在の既得権益を守ろうとする者たちだっていて、確信犯で不景気にしているということもある。

日本中に大型店舗の進出を展開しているグローバル企業によって、地元の小売店がどんどん倒れてゆき、シャッター街が増える一方の地方はすっかり疲弊してしまっている。そうして人口が減少してゆけばやがて大型店舗も撤退してゆき、寒々とした景色があとに残る。その延長で今、水道民営化とかカジノ法案等々、さらに外国資本に国を売り渡している。この国は、バブル崩壊後の30年を、そんなことばかり繰り返してきた。その結果として人の心はますます内向的になってゆき、ヘイトスピーチが幅を利かせ、「日本人に生まれてよかった」などという愚にもつかない感想を合唱するようになってきた。

ここでいう「内向き」とは、自意識過剰になって自分が生き延びることに執着しているということであり、山本太郎流にいえば、そうやって愚かな国の政治に追い詰められながらだれもが愛を喪失してしまっているからこそ、ときめき合い助け合う愛こそが現在のこのひどい状況をひっくり返す力になる、ということだろうか。

何はともあれ、人々の心から人間性の自然としての「ときめき合い助け合う心」が消えてなくなることはない。

 

原初の人類が二本の足で立ち上がったことは、「生き延びるため」ではなく、逆にその目的を捨て、みんなで「ときめき合い助け合う」というかたちで起きてきたのであり、そういう集団性にめざめていったのが「直立二足歩行の起源」という体験だったのだ。まあこのことを説明しようとするときりがなく長くなってしまうのだが、とにかくそういうことだ。

現在の山本太郎の街宣活動が人々の心を揺さぶるのは、その純粋でひたむきな心映えが伝わるからであり、それは、人間性の自然としてだれの中にも「ときめき合い助け合う」社会であればという願いが息づいていることを意味する。また、そういう願いが避けがたく起きてくるようなひどい状況もある。

現在は、総理大臣から下層のネトウヨまでの、人と人の関係を差別し分断するヘイトスピーチやデマのフェイクニュースが許されるひどい状況であったほうがいいと思うような者たちも一定数いるわけで、そこがなやましいところだ。

ヘイトスピーチフェイクニュースが存在するということは、「表現の自由」とか「趣味の問題」とか「寛容な多様性」というような名のもとに許されるべきことではない。それらは極めて不自然で非人間的な現象であり、ないほうがいいに決まっている。ましてやそれらが支配権力に守られて存在しているなんて異様・異常な事態だ。

ヘイトスピーチフェイクニュースは、許されることではない。徹底的に抵抗しなければならない。抵抗しなければ、戦争や虐殺に邁進するナチスドイツや大日本帝国主義のような世の中になってしまう。そういう支配権力にもたれかかったヘイトスピーチフェイクニュースがはびこっていいはずがないだろう。

山本太郎の人気が高まっているということは、この世界からヘイトスピーチがなくなることの希望にもなる。もしも彼が総理大臣になったら、今のネトウヨはたよるべき権力を失って、半分以上はどこかに消えてしまうにちがいない。

いじめをするものは、いじめをしてもいいのだという思いがあるし、現在の権力はいじめの装置になっている。資本家が自己利益を追求して貧しいものから搾取するのが正当な権利として横行している世の中で、いじめやヘイトスピーチをするなといってもせんない話ではないか。それは、世の中の空気感の問題でもある。彼らはそうやって人を憎んだりさげすんだりすることを、「正当な権利=正義」だと思っている。

何が「寛容な心を持て」か。この世の中からヘイトスピーチがなくなることを願ったらいけないのか?僕はべつにだれを憎むというわけでもないが、ネトウヨたちのヒットラー的なあの醜悪極まりない言説や扇動なんかこの世から抹殺してしまえばいいのに、と思う。それこそが人類の悲願ではないか。

山本太郎が総理大臣になればというか、だれもが彼の街宣に感動し応援するようになれば、少しはましな世の中になるのだろうな、と思う。彼の存在の向こうに人類の悲願が横たわっている。

差別のない世界を願ったらいけないのか?

戦争のない世界を想像したらいけないのか?

人と人が他愛なくときめき合い助け合う世界を夢見たらいけないのか?

夢見ることができなくなってしまったこの世界の中で、「現実を直視せよ」と上から目線でさかしらにのたまうことが、そんなに偉いのか?

言葉で人を殺しにかかるようなヘイトスピーチが許されていいのか?

彼らの言説は、新自由主義の政治経済の支配権力にもたれかかってゆくことの上に成り立っている。

われわれがあんな醜悪で凶暴な差別主義者に負けることは、人間の魂の尊厳が滅びることだし、貧しい者たちが富裕層からいいように簒奪される現在の世界の状況が永遠に続くということでもある。それでいいのか……?

 

 

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キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。

バブル景気の継続と崩壊

 

われわれ日本人は、あのバブル景気の時代に何を得て、何を失ったのか?

1980年代のあのころの活気は、今はもうない。90年代初頭のバブル崩壊とともに時代の景気状況は一変したのかもしれない。

1950年代の高校大学出の初任給は、おおよそ1万円くらいだった。それが60年代には3万円くらいになり、70年代には10万円くらいまで跳ね上がり、80年代になると20万円前後になった。それが高度経済成長の時代だったわけだが、90年代に入ってバブル崩壊が起き、その後の30年はもう、ほとんど増えていない。今の60歳のお父さんの若いころの初任給と息子の今の初任給がほとんど同じであるらしい。30年間のデフレ状況が続いているということで、バブル景気までのあのころとはまるで違う時代状況になっている。違うのだが、しかし、今なおバブル景気のままで生きている者たちもいて、下層の者たちの資産がどんどんそこに吸い上げられてゆくような社会の構造になっている。社会全体の景気は悪くなったが、消費税増税や非正規雇用の増加や高所得者の優遇税制等々によって、富裕層においては今なおバブル景気が続いている。

富裕層であることが悪だということもないが、権力者と資本家が結託して徹底的に貧しい者たちから搾り尽くして平気でいられるその心や社会状況は「病んでいる」としかいいようがない。

たとえば、「生き延びる」ことや「所有権を守る(追求する)」ことが正義であると合意されている社会になれば、富裕層というポジションを守ろうとしたり、より富裕になろうとすることは正義であるし、貧困層から搾り取ることだって平気になってしまう。

人は、「正義」の名のもとに戦争や人殺しだってしてしまうのだもの、貧乏人から搾り取るくらいなんの後ろめたさもない。貧乏人を殺すわけではない。貧乏人が勝手に死んでゆくだけのこと。

 

 

バブル崩壊以後の貧乏人にとってのこの30年は悪夢のような年月だったはずだが、因果なことに人々はあまり骨身にしみていない。というか、自分が貧乏であるのは国の政治のせいだとは思っていない。

政治に無関心であるのはこの国の伝統だ。また、どんな運命でも受け入れてしまうのは、普遍的な人間性である。そのようにして国の政治はかんたんには変わらないのだが、何かのはずみであっさりと変わったりもする。何しろ民主主義なのだから、2019年のときのように政治に無関心な者たちが投票行動を起こせば、あっさり政権が交代してしまう。

そしてあのときの民主党支持は、自民党に対する幻滅とセットになっていた。

ときめく心は、幻滅する心でもある。民衆社会はときめく心の上に成り立っているからこそ「嫌われ者」が生まれてしまうし、そのようにして権力社会に幻滅してもいる。

現在のこの国の総理大臣は、人から幻滅され嫌われながら生きてきた典型であるし、そういう者たちが寄り集まって権力社会を構成している。だから彼らは、執拗にマスコミや民衆に対する言論規制を仕掛けてくる。普通にしていれば人から幻滅され嫌われてしまう者たちだもの、それはもう彼らの本能的な処世術なのだ。

ネトウヨたちが現在の政権にすり寄ってゆくのも、幻滅され嫌われて生きてきた者たちの本能なのだろうし、そのような者たちが出世する世の中になってしまっている。

ネトウヨたちだけでなく、資本家や政治家たちだって、一般の民衆のことを「何も考えていない」というよりも「悪意=憎しみ」を持っているのだ。口では愛やいたわりがどうのといっても、本能的な部分においては「悪意=憎しみ」が作動している。だって彼らは「嫌われ者」として生きてきたのだもの。「嫌われ者」としてのルサンチマンとして生きてきて、その中の一部が出世の階段を上ってゆく。

もちろん、みんなから好かれて生きてきた人だって、その魅力や能力によって出世する。

しかしこの社会のシステムそのものにおいて「嫌われ者のルサンチマン」が作動しているのであり、多かれ少なかれだれもがそうした醜さというか病理を抱えてしまっている。

生まれたばかりの子供のように純粋で清らかな人なんて、めったにいない。と同時に、だれの中にもそうした「魂の純潔」に対する遠いあこがれが宿っているのであり、人はそこにおいて感激し涙している。

生きてゆくことは汚れてゆくことであり、その「かなしみ」のもとに「魂の純潔に対する遠いあこがれ」が息づいている。

だから僕は、「憎しみ」よりも「かなしみ」を生きる者でありたいと願っている。

 

 

ネトウヨヘイトスピーチに対する幻滅の声はどんどん高まっているし、世界的にも一部の富裕層が多数の貧困層から搾取し続ける現在の新自由主義的な社会システムを拒絶する民衆の動きもあちこちから起きてきた。

貧しい者たちはますます貧しくなって、富裕層はますます富裕になってゆく……こんな世の中が健全であるはずがない。一部のユダヤ人資本家をはじめとして、彼らは「嫌われ者」であることのルサンチマンをバネとして富裕層であり続けているわけで、彼らに人類愛などというものを求めても無駄な話で、彼らの存在の根拠は「人間に対する憎しみ」の上に成り立っている。そうしてその「憎しみ」は、ネオナチとかネトウヨと呼ばれる貧困層にまで及んでいる。

人間社会の基本は、「生きられない弱いものを生きさせようとする」ことの上に成り立っている。そうやって人類の歴史は進化してきたのであり、べつに心や体が強くなってきたのではない。現代人の心や体は、昔の人よりずっと脆弱ではないか。心も体も、かんたんに傷つき病んでしまう。人間の赤ん坊は、猿や犬や猫よりもずっと生きる能力を持たない存在である。それでも人間は、それらの存在を生きさせることができる。そうやって人類史は進化発展したのだ。

「生きられないこの世のもっとも弱いもの」を生きさせることができないで、どうして人間と呼ぶことができようか……まあ山本太郎はそう主張しているのであり、それこそが人類普遍の「夢や希望や願い」なのだ。それは、いつどんな時代においても、人類普遍の「本能=無意識」として、あるいは社会の「通奏低音=地下水脈」として、絶えることなく流れ続けている。

 

 

けっきょく人がいちばん感動するのは、ひたむきに他者に手を差し伸べようとしている姿なのだし、だれだってそういうことをしたいと心の底で思っている。少なくとももっとも魅力的な政治家とはそういう存在であり、自分に利益を与えてくれるとか、そういうことではない。

言い換えれば、自分に利益があるとかないとか、そんな損得勘定(=コスト・パフォーマンス)で政治家を選ぶなよ、という話である。選挙民は感激できる心を持つべきだし、政治家は感激させる心意気をみせてみろ、ということだ。

現在の投票行動のほとんどが損得勘定でなされているのだとしたら、それをしない者たちは良くも悪くもそういう意識が薄いことを意味する。言い換えれば、近代的な合理精神が薄い、ということ。それが日本文化の伝統、すなわち「色ごとの文化」であり、それが普遍的な若者の気質だともいえる。

損得勘定では動かない者たちの心を動かすことができなければ、投票率は上がらない。もちろんだれの中にも損得勘定はあるが、日本人の多くはそれを政治に求めていない。損得は自分の運命の範疇のことだと思っている。だからどんなに損得のことが気になっても、政治に対する関心は最初から薄い。

世の「無関心層」や「無党派層」は、「感激する」という体験がなければ選挙に参加しない。山本太郎は今、その「誰かに手を差し伸べたい」という純粋でひたむきな心を込めた演説によって、選挙に行かない人々を感激させている。新聞の調査によれば、「れいわ新選組」の支持率が10パーセントになろうとしているらしい。選挙がはじまれば、もっと増えるに違いない。

世の右翼や左翼が慌てているらしい。

民衆の動きが盛り上がるのは、「損得勘定=コストパフォーマンス」によってではない。「もう死んでもいい」という勢いで人と人が他愛なくときめき合い助け合う「祭りの賑わい」に向かって盛り上がってゆく。そういう勢いが起これば、損得勘定に終始していた既成の選挙システムを凌駕してしまう。

消費税廃止の政策を掲げながら山本太郎は、「みんなでときめき合い助け合ってゆく社会をつくろうよ」と訴えている。損得勘定の政策を掲げながら、損得勘定を超えてゆこうとしている。その政策が正しいかどうかはやってみないとわからない……ということは、だれもが思っている。人々がそれでもそれを信じるのは、「みんなでときめき合い助け合う社会」が実現することを願っているからだ。

この世にごく少数の富裕層と多数の貧困層が存在するのは、社会全体のシステムとして、「憎しみ」とともに他者を排除しながら生き延びようとする損得勘定がはたらいているからだ。「憎しみ」による「分断」ということがはたらいていなければ、派遣社員を大量に生み出す社会などつくれるはずがない。

「正義」とは、「憎しみ」の別名なのだ。

この国の総理大臣が息を吐くように嘘を並べ立てることができるのも、官僚たちが統計を改竄したり文書を破棄したりすることができるのも、自分たちのもとに「正義」があると思っているからだ。

人と人が他愛なくときめき合い助け合う社会は「正義」の彼方にあり、そこに向かって「祭りの賑わい」が盛り上がってゆく。

前回の衆議院選挙のときの枝野幸男と今回の選挙の山本太郎と、二度続けて一人で立ち上がった政治家に向かって風が吹いている。それが何を意味するかといえば、人々は今、あのフランス革命のときの先頭に立って民衆を率いた「自由の女神」のような存在を求めている、ということだろうか。

この国の民衆は、大和朝廷の発生以来の1500年を国の政治に無関心な歴史を歩んできた。そうしてようやく今、民主主義というものに目覚めつつあるのだろうか。

 

 

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『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

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初音ミクの日本文化論』前編……250円

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です。

人類の夢と希望と願い

現在のこの国の総理大臣のように無知で無教養で性格の悪い人間が、自分がちやほやされる状況を確保しておくためには、自分に逆らったり自分を軽蔑したりする相手は徹底的に叩きつぶしてしまおうとする。総理大臣を含めたすべてのネトウヨに共通した生きる流儀である。彼らは、愛やときめきによってではなく、みずからの「憎しみ」をよりどころにして生きている。だから彼らは「嫌われ者」として人生を歩んできたし、「嫌われ者」であることから逃れていられるその充足した世界に対する執着はことさらに強く、同時に、それゆえにこそ充足の外の世界に対する「憎しみ」はなお激しくなる。彼らは、「嫌われ者」であることの「憎しみ」というか「恨みつらみ」というか「ルサンチマン」を糧として、その充足した世界を構築してゆく。

彼らは一種の偏執狂だろうと思えるが、現在はそういう人間ほど成功できる社会のシステムになっているし、現代人は多かれ少なかれみな偏執狂だともいえる。自分だけは清らかで健康だとはだれもいえないし、因果なことにそういう傾向の強い人間ほど自分だけは清らかで健康だと思っている。偏執狂とは、みずからの存在の正当性に執着することだ。

この世に正義など何もないはずなのに、どうして彼らはそんなものに執着できるのだろう。他者を排除したいのなら「正義」こそがもっとも有効なカードであり、人殺しも戦争も、「正義」の名のもとになされる。

他者とときめき合うことのできない飢餓感が、みずからの存在の正当性に執着してゆく。

「結束」しようとすることと「排除」しようとすることは一枚のコインの裏表であり、第三者を「排除」してゆくことによって「結束」が生まれてくる。「結束」してゆく集団は、「憎しみ」の上に成り立っている。

どうして「日本人に生まれてよかった」などと思うのか。そのいじましい優越感や自己の正当性に対する執着は、いったい何なのだ。それは、日本人ではないものに対する優越感や侮蔑や憎しみと一体なのだ。

自分が生きてあることなんか正当なことでもなんでもないし、自分が日本人であることなんか素晴らしいことでもなんでもない。それは、われわれの「運命」なのだ。その「運命」を「嘆き=かなしみ」とともに肯定し抱きすくめてゆくのがこの国の伝統であり、命や心はそこから活性化してゆく。

 

 

人は、「憎しみ」にとらわれたまま生きてゆくことができるだろうか。その埋め合わせとして、下は「日本人に生まれてよかった」とか上は「社会的な成功をした」というような「充足感」や「幸福感」に潜り込んでゆくのだろうが、それは心がときめき飛躍してゆくという生き生きした動きを失い停滞し澱んでいる状態でもある。

明治維新から太平洋戦争の敗戦までのこの国は、そうした「憎しみ」と「充足感」を基礎にした不幸な歴史を歩んできた。その停滞し澱んだ「国体=国柄」の果てに自家中毒を起こし、侵略と戦争を繰り返すことにのめり込んでいったあげくに、あのみじめで無残な敗戦を迎えねばならなかった。おそらくそれはもう、歴史の必然的な運命だった。

明治維新以後のこの国は、内乱の歴史としてはじまった。元下級武士による反乱や、民衆による一揆のような米騒動などが、野火のように列島中に広がっていった。それはまさしく国として自家中毒を起こしている状態だったのであり、そのことは夏目漱石のような本格的な知識人から名もない庶民まで、多くの人々が気付いていることでもあった。そしてその混乱状態に一気にけりをつけたのが、日清戦争を起こして国民を結束させてゆくという事態だったのであり、そこからはもう、たえず戦争していないと国が成り立たないというような自家中毒の連鎖に陥っていった。

明治維新以後のこの国は自家中毒の歴史だったのであり、それは、あのみじめな敗戦を迎えるまで収束することはなかった。

そうして敗戦直後のこの国は、経済的な困窮を極めた上にナショナリズムのもとに結束してゆくという「充足感」も失った代わりに、「憎しみ」を糧にして生きるという自家中毒からも解放された。

関東大震災のときは、人々の心がヘイトスピーチの流言飛語によって自家中毒を起こし、「朝鮮人虐殺事件」のようなことがあちこちで起きた。しかし戦後の東日本大震災のときは、一時的にせよ、だれもがときめき合い助け合い連携してゆく関係が生まれた。同じ日本人なのに、どうしてこんな違いが生まれるのか。誰だって、あんな日本人にはなりたくないし、日本人であるだけで素晴らしいなどということはない。百田尚樹とか櫻井よしことか杉田水脈とか、あんな狡猾で執念深い日本人のどこが素晴らしいのか。日本人だって、「嫌われ者」はいくらでもいる。

何が「日本人に生まれてよかった」か?ばかばかしい。

彼らは、「日本人に生まれてよかった」といわない日本人のことを「反日」などといって排除しようとする。日本人を嫌いな日本人が「日本人に生まれてよかった」などというのは、とんだお笑い草だ。そういいたければ、すべての日本人を愛せ。

 

 

現在のこの国の政治経済の支配層の多くは右翼思想の持主らしく、戦前回帰志向の言説が幅を利かせている。彼らは、「憎しみ」と「充足感」の自家中毒の中で生きている。自分の充足が大事であるのなら、他人の不幸など知ったことではない。むしろ他人が不幸であることによって、みずからの優越・充足をより確かに実感できる。まあそういうサディズムが、支配階層だけでなく、支配される者たちのあいだにまで蔓延してしまっている。サディズムを培養するような社会の構造になってしまっているのだろう。このままではだめだ、多くの人々がますます不幸になってゆく……と気づいていても、そうかんたんには変わりそうもない、という絶望的な気分が先に立つ。とはいえ、人の世が人の世であるかぎり変わらないはずがない、とも思える。

そりゃあ、いつになったら変わるのか、という暗澹たる気持ちもないわけではないが、人はつねに心の底で「究極の未来(あるいは理想)」を夢見ている存在であり、そうやってたえず「現在」が否定されながら時代は移り変わってゆく。究極の未来を夢見ながら現在の不条理に異を唱える者は必ず現れてくるし、それにみんなが賛同するお祭り騒ぎのムーブメントも起きてこないはずがない。

人はみな、戦争のない世界を夢見ている。それがどれほど現在の状況にそぐわないものであったとしても、人として究極の未来を夢見ることを宣言した日本国憲法第九条は尊いのだ。

それは人類の悲願であり、世界にひとつくらいは究極の未来=理想を夢見る憲法があってもいいではないか。

究極の未来を夢見るのは人間の本性なのだし、人はみな究極の未来から試されて生きている。究極の未来を夢見ることを失ったら、人間ではなくなってしまう。

どんなにいびつな社会になったとしても、人の心から人間性の本質というか究極のはたらきが消えてなくなることはない。なんのかのといっても、人類の文明社会の歴史は、さまざまな紆余曲折はあったとしても、けっきょくは「民主主義」に向かって流れてきた。なぜなら原始時代は直接民主主義だったし、それが、いつの時代も人が夢見ている究極の社会のかたちでもある。

 

 

人の心はつねに、究極の未来=理想から照射されている。それは、社会のかたちだけの話ではない、誰の心の中にも夢や希望や願いはある。

では、人としての根源にして究極の夢や希望や願いとは何か?もちろん誰ってこんな大問題の答えなんかそうかんたんに導き出せるものではないが、ひとまずわれわれが必ず死ぬことを自覚している存在であるということにおいては、「今ここ」に生きてある事態をどう取り扱うかということはそのひとつだといえるのかもしれない。

「生き延びたい」ということではない。なぜならわれわれは「すでに生きてある」のであり、「すでに生きてある」状態においてしか意識がはたらかないのだから、「生き延びたい」という夢や希望や願いが根源的な無意識としてはたらいていることは原理的に成り立たない。

それはあくまで「今ここに生きてあることをどう取り扱うか」という問題なのだ。そしてそれは、「どう死んでゆくか」という問題でもある。

われわれは「必ず死ぬ」ということはわかっているが、「死とは何か」という問題は永久に解くことはできない。この世でもっとも知りたいことなのに、永久にわからない。その「わからない」ということとどう和解してゆくことができるか。

それは、「わかりたい」ということではない。「わかる」ことは、あらかじめ断念されている。「わかりたいのにわかることができない」という、その「わからない」ことと和解したいのだ。おそらく人類は、そうやって「無=ゼロ」という概念を発見した。

であれば、人類の根源にして究極の夢や希望や願いは、「死」がわかることであると同時に、「永久にわからない」ことと和解することでもある、ということになる。

「わからない」ことほど人の心を惹きつけるものはない。すなわち「不思議」「神秘」「謎」、人の心の夢や希望や願いは、そういうところに向かってはたらいているし、そこにおいてこそ心が活性化する。

自分が「消えてゆく」心地であるという女のオルガスムスは、ようするに「何もかもわからなくなる」心地であり、その「不思議」「神秘」「謎」に引き寄せられてゆく体験だ。だから、昔の人は「死んだら何もない黄泉の国に行く」といった。それは「色ごとの文化」の国の死生観であり、どうせ「死後の世界」などわからないのだし、そういうことにしておくことこそがもっとも「死=わからない」ことと和解できる思考法であり、もっとも深く腑に落ちるイメージだった。

彼らは、「死後の世界」など問わなかった。彼らにとってのもっとも切実な問題は「死んでゆく」ことにあり、そのもっとも心地よい体験として、自分が「消えてゆく」ビジョン(=オルガスムス)をイメージしていった。

古代人にとっての「黄泉の国」は「オルガスムス」のイメージであり、そこで「消えてゆく」ということを果たす。「消えてゆく」ことは「『かみ』になる」こと。神道における「かみ」は「存在しない」のであり、「存在しない」ことが「かみ」であることの証しなのだ。もともとの神道は、そういう逆説的な思考の上に成り立っている。

必ず死んでゆく存在である人の夢や希望や願いは、根源的には「無=ない」ということに向かってはたらいている。

 

 

人がお金を欲しがるのはそれを使うためだし、使うことはお金が無くなってしまうことだ。そうやって「無=ない」に向かう。そして、自分がお金を使ってしまうことはそれがだれかの収入になるということであり、このことを大げさにいえば、自分の命を差し出して他者の命を救う、ということになる。つまり、たったこれだけのことにだって、人の夢や希望や願いの根源かつ究極のかたちがはたらいている。

人の夢や希望や願いの根源かつ究極は、自分が「消えてゆく」ことであり、他者や世界が「存在する=出現する」ことにある。そうやって人は、セックスをし、子供を産む。世界や他者の出現に驚きときめき感動することは、自分が「消えてゆく」心地とともに体験される。

世界や他者の輝きにときめくことは、自分が消えてゆく体験である。そうやって自分が消えてゆく体験がエクスタシーになっている。自分が消えてゆくことのエクスタシーには、世界や他者の輝きにときめいてゆく体験がともなっている。そうやって人は、自分が消えてゆくエクスタシーとして、他者の輝きにときめき、他者を助け生きさせようとする。

人の夢や希望や願いの根源かつ究極は、いわゆる「自己実現」ではなく、「自分が消えてゆく」体験とともに、他者の輝きにときめき助け生きさせようとすることにある。すなわち他者に手を差し伸べることこそ夢や希望や願いの根源かつ究極のかたちであり、そこでこそもっとも深く豊かなエクスタシーが体験されている。

「自分が死んでゆくことと引き換えに他者を生きさせる」……それはべつに倫理道徳の話でもなんでもなく、生きものの命のはたらきの本質の問題なのだ。

息を吸うことはひとまず命のいとなみであるが、それによって息を吸うという命のいとなみをする必要がなくなるわけで、そのとき生きものは「生きていない状態になっている」ともいえる。生きものは、死に向かう夢や希望や願いとともに「息を吸う」といういとなみをする。息を吸えば、生きてあることを忘れてしまっている。それは、死んでいる状態だともいえる。生きものは、生きてあることを忘れるために、生きるいとなみをする。すなわち夢や希望や願いの本質は、「死に向かう」ことにある。

「生き延びるため」などと安直にいってもらいたくない。命のはたらきも心のはたらきも、「死に向かう」かたちで活性化してゆく。そうやって人類の歴史は進化発展してきたのであり、進化とは「死に向かう」動きなのだ。

八百屋で大根を買うことだって、「死に向かう」いとなみなのだ。

人は、夢や希望や願いを持たないですむ状態に向かって夢や希望や願いを抱く。

神社でおみくじを引いたり絵馬に願い事を書いたりするのは、夢や希望や願いを抱くことから解放されたいからであり、それほどに病気や受験勉強が苦痛だからだろう。生きてあることの「苦痛」が夢や希望や願いを語らせる。そして、死んだらすべての苦痛から解放される。

 

 

「消えてゆく」ことは「救済」なのだ。だから日本列島の古代人は、死んだら何もない「黄泉の国」に行く、といった。小林秀雄は「そう考えることがよりよく生きるための作法である」というようなことをいったが、そんな単純な話ではない。古代人にとって「黄泉の国」は「死んでゆく過程」であり、そこを通過することによってはじめて「死=消えてなくなる」ということにいたる、と考えた。

古事記の「イザナミ」の話はもちろんのこと、能の「怨霊」の話にせよ、それは死んでゆく過程としての「黄泉の国」のことであって、「死後の世界」を語っているのではない。

「もがり」は、日本列島のもっとも古い埋葬方法のひとつであるといわれている。それは、死体をいったん山の中等に放置しておいて骨だけになってから埋葬する、というものであるが、「黄泉の国」というイメージはおそらくそこからきている。彼らにとって「死体」はまだ「死」そのものではなかった。「死体」が「けがれ」であると認識されていたのはそのためであり、「死体」がこの生の延長であるということは、この生そのものが「けがれ」であると認識していたことを意味する。生きることは苦痛にあえいだり夢や希望や願いを語ったりすることであり、そのこと自体が「けがれ」なのだ。そうして、「きれいさっぱり消えてなくなる」ことを「みそぎ」といった。彼らにとって「死体」は「けがれ」であるが、何もかも消えてなくなる体験としての「死」そのものは「みそぎ」だった。そしてこれは、「消えてゆく」ことのエクスタシーの上に成り立った「色ごとの文化」でもある。

古代人は「言挙げしない」といった。そんなことにも「無=ない」に向かって「消えてゆく」ことに対する夢や希望や願いが託されている。

 

 

「色ごと」と「セックス」、すなわち「情交」と「性交」、この二つは、同じであって同じではない。「色ごと=情交」は「人情の機微」の上に成り立っている。

今どきのネトウヨたちは「人情の機微」に鈍感だから、無神経なヘイトスピーチに熱中する。彼らは「正義」を振りかざして人を裁くようなことばかりいう。そんなことをいっても「人情の機微」というものがあるだろうという話だが、彼らには通じない。彼らは、「人情の機微」の世界を生きることができない。「嫌われ者」として生きてきたから、「人情の機微」の世界を憎んでいる。彼らは、日本列島の「民衆社会の伝統」から逸脱してしまっている者たちであり、逸脱して「権力社会の伝統」にすり寄っていっている。

日本列島の民衆社会における人と人の関係の伝統は「人情の機微」の上に成り立っているから、「正義」を振りかざすことが流儀の権力社会に対して無関心無抵抗になりがちで、大和朝廷の発生から現在までの1500年を、権力社会のやりたい放題に支配されてきた。ともあれその間民衆は、権力社会にたやすく支配されても、権力社会にすり寄ってゆくということはしなかった。

まあネトウヨなんか、この国の伝統でもなんでもなく、明治以降の近代合理主義の洗礼を受けたことによって産み落とされた極めていびつな鬼っ子のような存在なのだ。

江戸時代以前の日本列島には、ネトウヨのように「憎しみ」を糧にして生きている民衆なんてほとんどいなかった。

ネトウヨが集まって「わび・さび」の文化が生まれてくることはあり得ない。彼らは、みずからの「憎しみ」を消し去るすべ、すなわち「みそぎ」の作法を持っていない。だから、歴史修正主義を掲げて中国・朝鮮を憎み続けることをやめない。そうしないと生きられないのだから気の毒ではあるのだが、大いにはた迷惑でもある。日本人は、彼らのように生きる伝統を持っていない。

中国・朝鮮に謝るべきかどうかはわからない。江戸時代以前の武士は、謝って許しを乞う代わりに、腹を切った。それは、もっと過激で本質的な「贖罪」の方法だった。そこのところは、「神に懺悔して許してもらう」という西洋の伝統とはちょっと違う。日本列島には、そういう「神」はいない。

日本列島の「かみ」は、許すことも裁くこともしない。何もしない。「かみ」は、隠れている。すなわち「存在しない」対象なのだから、何もしない。「消えてゆく」ことのエクスタシーを基礎にした「色ごとの文化」においては、そのようにして「かみ」がイメージされていた。

 

 

ネトウヨは「自己充足=自我の拡大」を求める。それが彼らの夢や希望や願いであるらしい。彼らの思考は、バブリーだ。空疎な張りぼての虎、砂の楼閣。軍備拡大に突き進んだ明治以降の大日本帝国もまさにそのような動きで、夏目漱石をはじめとする良識的な人々はうんざりしていた。こんなことでは日本列島の伝統が壊れてしまう、と嘆いた。

日本列島の伝統としての「色ごと」の文化においては、「消えてゆく=自己消失」のエクスタシーが夢や希望や願いになっている。一方ネトウヨたちの思考様式はもう、根本的にそこから外れてしまっている。そういう者たちが今、「日本人に生まれてよかった」と大合唱しているのだから、笑わせてくれる。

人としての夢や希望や願いの根源と究極すなわち本質は、「自己充足=自我の拡大」にあるのか?そうではないだろう。この世界が輝いていることこそ人としての根源かつ究極の夢や希望や願いであり、心は、その輝きとの「出会いのときめき」や「別れのかなしみ」として活性化する。それは、自己が「消えてゆく」体験なのだ。人としての夢や希望や願いの本質は、「消失点(カタストロフィ)」に向かってはたらいている。世界の輝きは、そこから現れ、そこに向かって消えてゆく。まあこの話はちょっとややこしくて、「日本人に生まれてよかった」などと合唱している連中に説明するのはとても困難であるのだが、とにかくそういうことなのだ。彼らのように「憎しみ」を基礎にして生きている者たちの夢や希望や願いの対象は「正義」であり、彼らが願う日本人であることも生き延びることも社会的に成功することも、すべては正義の側に立つことの自己の充足や拡大にある。それに対して世界や他者との出会いや別れにときめいたりかなしんだりして生きている者たちは、「世界や他者の輝き」それ自体が夢や希望や願いになっている。

今どきのネトウヨや右翼政治家や多くの資本家たちは、自己の充足や拡大を目指して生きている。彼らにとって世界や他者はくすんでいるほうが満足なのだし、そういう存在だとみなしたがる。だから、民衆が貧困や差別であえいでいるといってもなんとも思わない。それどころか、それこそが彼らの望むところだというか、その自己の充足や拡大の根拠になっている。

民衆を貧困におとしいれ差別してゆくことは、彼らの正義なのだ。だから、消費税を上げ年金や生活保護費を削る等々の民衆を抑圧する施策を進めることに、何のためらいもない。彼らの心の底には、民衆に対する悪意=憎しみが巣食っている。民衆の中にも、民衆に対する悪意=憎しみをもっとあからさまに抱いている者がいる。それがネトウヨで、彼らは排除することの自己充足に耽溺しているばかりで、「別れのかなしみ」というものがない。「別れのかなしみ」がないから「出会いのときめき」もない。「日本人」というすでにある予定調和の世界で自己充足していたいらしい。権力者や富裕層の社会でも「参入障壁」をつくって、つねに排他的である。

まあ「日本人」であることはもっとも手軽で確実な「既得権益」で、それだけは貧しい民衆にも与えられている。

自分が他人よりも優位であることを確認して安心を得ようとするなんてまったくいじましい話だが、差別があり競争がある社会に生きていれば、だれだってそういう視線がまったくないとはいえない。ないとはいえないがしかし、そのことを生きるためのよりどころにしているとしたら、それは病んでいる。

 

 

たとえごく少数であっても、ひたむきに世界や他者が輝いていてほしいと願っている人はいるし、そこにこそ人間性の本質がある。だから少数意見は大切だし、だれの心の奥にもそういう願いは息づいている。世界や輝いていなければ、心は活性化しない。

学問や芸術や芸能や職人技等々、人類の文化はつねに「無用者」であるマイノリティにリードされて進化発展してきた。そして人類の普遍的な悲願は赤ん坊や病人をはじめとする「生きられないこの世のもっとも弱いもの」を生きさせることにあり、人類の歴史そのものがそうしたマイノリティにリードされて流れ、進化発展してきたのだ。

人類の夢や希望や願いの根源は、わが身が「消えてゆく」ことのエクスタシー=カタルシス、とともに、生きられない他者に手を差し伸べようとすることにある。

多くの人は、あのネトウヨたちのようなどんよりした心で生きたいとは思わない。どんよりした心で生きている当人だって、そんなことは願っていない。

人は根源において自己の充足を願っているのではない。充足できないでくるおしくなやましく動いているのが人の心の本質で、どうしてそうなってしまうかというと、自分を忘れて世界や他者の輝きにときめいてしまう性質を持っているからだ。どうして自分を忘れてときめいてしまうのかといえば、人はだれもが存在そのものにおいて「受苦性」を追っているからだ。だから。「消えてゆく」ことがエクスタシーになる。

人はだれもが「消えてゆきたい」存在であり、人としての根源的な夢や希望や願いはそこにこそある。

大震災で生き残ったおばあさんが、死んでいった若い人のことを思って「私が代わってやりたかった」という。これこそもっとも根源的で本質異的な夢や希望や願いなのだ。江戸時代の女房が、子供や亭主のために必死に「お百度参り」をする。夢や希望や願いのために「酒断ち」や「茶断ち」をする。これだって、「消えてゆこうとする衝動」の上に発想されている。

人が人であるかぎり、「誰かに手を差し伸べたい」という衝動は、どんなに貧しく弱いものにも宿っている。この生は、そんな「夢や希望や願い」が生まれてくるような仕組みになっているのだ。それこそが人類の根源にして究極の「悲願」であり、それをどれだけ結集し組織してゆくことができるか、と山本太郎が今がんばっている。

 

 

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キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。

ヘイトスピーチの彼方へ

 

言論の自由は守られねばならない。

だから、ヘイトスピーチだって許される。しかしそれは、限りなく醜いし、それによって傷つく人がたくさんいる。人の世は、その醜さと暴力性に耐えられない。耐えられる人間や世の中は異常だ。

ヘイトスピーチが自由であるのなら、ヘイトスピーチなんか許さないと叫ぶのも自由だろう。そういう叫びが存在しない社会は、健全とはいえない。

ヘイトスピーチの醜さと暴力性に支えられている権力なんか異常だ。

それは、社会の分断の象徴になっている。

ヘイトスピーチは、騒々しい。そして執念深く狡猾だ。彼らは、それによって「結束」してゆく。結束するためには、多様で緩やかに「連携」してゆく社会は認めてはならない。彼らは「嫌われ者」だから、そういう関係性を生きることができない。彼らには「ときめく」感受性がない。だから「嫌われ者」になる。そうしてヒステリーを起こし、ヘイトスピーチを吐き出す。「結束」する社会こそ彼らの理想であり、そういう約束された関係性を生きようとする。そこに参加してこないものは徹底的に排除してゆく。排除するためにはヘイトスピーチが必要だし、排除することによって「結束」してゆく。

「日本人」という約束された関係、そこに彼らの生きる場があり、「日本人に生まれてよかった」と合唱している。だから在日外国人を攻撃するし、日本人あることを嘆いたり政府を批判したりする日本人にも「反日」という呪詛を浴びせかける。

人間社会の「結束」は、権力支配によって生まれてくる。「結束」の上に成り立つ集団行動や戦争は、ファシズム国家や宗教団体の得意とするところだ。

あの戦争のときは、「鬼畜米英」や「非国民」というヘイトスピーチが流行った。その愚かさが今、ネトウヨというかたちでよみがえっている。ともあれそれは権力による強制がなければ国民全体に浸透することはないわけで、総理大臣から下層の庶民まで彼らは権力の亡者たちなのだし、現在の政権が続くかぎりこの騒々しさは収まらないのだろう。

彼らには、人としてのあたりまえの感慨や思考を共有してゆく能力はない。彼らは、支配し支配される関係の中でしか生きられない。ヘイトスピーチは、支配し支配される関係の中でしか共有できない。

人間であれ猿であれ、集団は支配し支配される関係の中で「結束」してゆくのだし、原初の人類は、二本の足で立ち上がることによって猿の集団性と決別し、他愛なくときめき合いながら緩やかに「連携・連帯」してゆく集団性を身につけていった。

ヘイトスピーチが生まれてくるということは、この社会の基礎に多様で緩やかに連携・連帯してゆく関係性が生成しているということでもある。いつの時代もどこにでも、人間性の自然としての人と人のときめき合う関係がなくなることはない。

現在は、戦時中のようなヘイトスピーチに同意しなければ権力によって罰せられるということはない。少しずつ、ネトウヨに対する包囲網が生まれつつある。ネトウヨの騒がしさはもう、飽和点に達している。

 

 

日本会議ネトウヨたちを背にした現在の支配者たちは、国民や家族はかくあらねばならないということ徹底的に押し付けようとしてきている。彼らは、支配するにせよされるにせよ、「かくあらねばならない」という「規範」の中でしか生きられない。しかしその支配=被支配の関係性は猿の集団性であり、人類の集団の基礎は、無主・無縁の混沌のままに他愛なくときめき合い助け合いながら緩やかに連携・連帯してゆくことにある。そういう関係性が担保されていれば、家族だろうと国家だろうと、なんとなくの「なりゆき」でなんとかなってゆく。二本の足で立ち上がった原初の人類はともかくそうやって今日までの歴史を歩んできたのであり、そういう関係性=集団性を担保しようとするのはもう、人類の本能のようなものだ。

だから、1945年の敗戦後のこの国の民衆は、大日本帝国憲法による国家神道の呪縛によって人々を「結束」させようとする関係性=集団性をあっさりと捨て去った。そしてそこから、より豊かにときめき合い助け合い連携してゆく関係性=集団性のダイナミズムを生み出し、戦後復興を実現していった。

あのころのこの国は極限まで貧窮していたが、それでもベビーブームが起きた。とすれば、現在の少子化問題は、単純に経済的な理由だけでは語れない。もちろん経済的な困窮はもっとも大きな問題に違いないが、「格差社会」とか右翼主導の「教育制度」等に加えて人と人の関係や集団性が壊れてしまっていることもある。現在の経済システムや右翼政権によってそうした関係性=集団性が壊されてしまっている。その関係性=集団性が豊かに機能していれば、どんなに貧窮しても、子供はどんどん生まれてくる。

子供がどんどん生まれてくるのが、原初以来の人間性の自然なのだ。

何はともあれ、人と人の関係性が壊されてしまっている世の中なのだもの、子供が増えるわけがない。

政府が「人づくり革命」などと言い出したのは、いつごろのことだったろうか。彼らの醜悪な人間観によって、いったいどんな「人づくり」ができるというのか。総理大臣とか日本会議とかネトウヨとか、今どきの右翼の無知で恥知らずで醜悪なだけの「規範」を大きな顔をしてどんどん押し付けてくる政治支配によって、家族も教育も社会もすべて壊されてしまった。この国の伝統である「人と人が他愛なくときめき合い助け合い連携してゆく関係性=集団性」がすっかり壊されてしまった。われわれは、それを彼らから取り戻すことができるだろうか。取り戻すことができるはずだ。われわれが日本人であるかぎり、人間であるかぎり、そういう関係性=集団性がこの世から消えてなくなることはない。

 

 

「他愛なさ」こそ美しく偉大だ。他愛なくてしかも聡明で勇気のあるヒーローが待ち望まれている。他愛ない心は、美しいものに憑依する。美しいものは、この世の外にある。他愛ない心は、この世の外に向かって飛躍してゆく。そうやって人の心の「もう死んでもいい」という勢いが生まれてくる。そうやって、心や命のはたらきが活性化する。人類の歴史は、生き延びようと欲望し計画して生き残ってきたのではない。「もう死んでもいい」という勢いで命や心を活性化させながら生き残ってきたのであり、そんな「他愛なさ」を持ったヒーローが待ち望まれている。

だから、山本太郎、なのですよ。

われわれ民衆は今、山本太郎をヒーローにすることができるか、と試されている。できなければ、この国のひどい状況はますます加速してゆき、右翼が高笑いする。

このひどい状況を切りひらくのは、あの凡庸な左翼たちではない。右翼でも左翼でもないおバカで「他愛ないもの」たちが切りひらくのだ。

僕は、こざかしい右翼も左翼もごめんだ。この世界や他者の輝きに他愛なくときめいてゆくものたちを信じる。問題は単純だ。困っている人に手を差し伸べようとするのか、それとも支配し排除しようとするのか、それだけのことだ。お国のためだか何だか知らないが、あなたたちは、貧乏人から金を搾り取ってよく平気でいられるものだ。消費税をなくしたら国の経済が危うくなる、というような議論もあるらしいが、危うくなったっていいではないか。困っている人を助けることができない国なんか、滅びたっていいのだ。

「滅びてもいい」と覚悟したところから、心も命も経済も活性化する。それはもう、この宇宙の原理なのだ。

たとえば国債を発行し紙幣を刷って低所得者層の底上げをすることが国の経済の自殺行為だというのなら、それは「もう死んでもいい」という覚悟をしなければできないことだろう。だったら、覚悟をすればいいではないか。覚悟をしなければ何もできないし、社会は活性化しない。

この社会に「誰かに手を差し伸べたい」という思いが生成していなければ、この社会は活性化しない。もともと人類は、そうやって歴史を歩んできたのであり、ネアンデルタール人はみんなそう思って生きていたし、縄文人だって同じだ。彼らは、「原始呪術=アニミズム」などというものにすがりながら、生き延びようとあくせくしていたのではない。

 

 

「もう死んでもいい」という勢いで生きることは、人生の最後に死を迎えたときに慌てふためかないでそれを受け入れるための大切なトレーニングでもある。原始人や古代の民衆はみな、そのトレーニングをして生きていた。そして現代社会は、そのトレーニングを怠って動いている。

自分が生き延びることを最優先にして生きている資本家や政治家に「手を差し伸べることをしろ」といっても無駄な話だし、だまされる民衆が悪い、ということもある。

古代の民衆は、権力支配に従順であったが、そうかんたんには騙されなかった。民衆社会は、権力社会から下りてくる支配制度とは別の、民衆だけの自治のシステムや思想=世界観をちゃんと持っていた。だから、権力社会が押し付けてくる仏教に対抗して「神道」をつくっていったし、権力社会も神道と仏教を習合させる策を講じなければならなかった。

村は、村独自の自治のシステムを持っていたし、村と村の連携のシステムも機能していた。

古代の民衆は、現代の民衆よりももっと賢明で、そうかんたんには権力社会に洗脳されなかった。これはまあ世界中どこでもそうで、権力支配のことがよくわからない歴史段階であれば、そうかんたんに洗脳されようがない。

ヨーロッパでなぜ民衆革命が起きたかといえば、権力者と民衆が同じ世界観を持っていたからだろう。だから、容易に権力の座を交代することができる。

しかし古代の日本列島では、権力社会と民衆社会の世界観や集団運営のシステムが違っていた。だから、かんたんに支配されてしまうが、かんたんには洗脳されない。そういう伝統があるから、今でも「無党派層」や「無関心層」の民衆がたくさんいる。で、ひとまず民主主義の社会であるのなら、そうした洗脳されない層を結集させることができれば、政権なんかかんたんに倒すことができるに違いない。

僕も「無党派層・無関心層」のひとりであり、既存の左翼や右翼には大いに違和感がある。

とはいえ現在の状況においては、右翼・保守を名乗る者たちは押しなべて醜悪に見えるし、魅力的な知識人は左翼・リベラルの側の人が多いように思われるのだが、自分としてはこの国の伝統や天皇のことに関心があるのだから、どちらというと右翼かもしれない。だから、元一水会代表の鈴木邦男氏に対しては、そこはかとないシンパシーがないわけではない。

ただ、彼らのように、天皇に対して崇拝するほどの気持ちは僕にはない。天皇に対してだって、ひとりの民衆としてそれなりのシンパシーがあるだけであって、それは崇拝ではない。

日本人としての誇りもとくにない。日本人ではあるのだけれど、日本人や日本という国を外から眺めているような気分のほうが強く、「日本人に生まれてよかった」という気分はさらさらない。僕にとって日本人であることは、僕の運命であって、べつに誇りなんかではない。

 

 

「日本讃歌」とか「生命賛歌」とか「人間賛歌」とか「生活讃歌」とか「家族讃歌」とか、そういうバブリーな思考は趣味じゃない。人恋しくはあっても、人間にうんざりもしている。

「嘆き」や「かなしみ」を抱きすくめてゆくのが、日本列島の文化の伝統の基礎原理になっている。そこから、他愛なくときめいてゆく。無知蒙昧だから他愛ないのではない。赤ん坊が無邪気であるのは、ひといちばい深く切実に「嘆きとかなしみ」を生きている存在だからだ。

猿にこの「他愛なさ」があるか……?ないのですよ。

「他愛なさ」は、「魂の純潔」であり、「魂の純潔に対する遠いあこがれ」である。いずれにせよそれは、「嘆きとかなしみ」の上に成り立っている。

「日本人に生まれてよかった」と合唱している右翼たちの、その充足しきって弛緩してしまっている表情には「嘆きとかなしみ」がなく、「それでも日本人か」と思わせられる。

彼らの、あの気味悪い「うすら笑い」はいったい何なのだ。「腹にいちもつ」とは、まさにあのことだ。

総理大臣をはじめとする今どきの右翼たちのその「うすら笑い」と、山本太郎が街頭演説や国会質問で見せるあの純粋でひたむきな表情と、いったいどちらが人々の共感を得るだろうか。そんなの、問うまでもないことだ。

今回山本太郎が『れいわ新選組』という旗を立ち上げたことによって彼は、与党からも野党からも攻撃されて四面楚歌に陥っている。野党の面々からすれば「野党共闘に水を差す」ということだろうが、山本太郎にすれば「野党の経済政策も気に入らない」と思っているのだからしょうがない。孤立無援を恐れない、というその心意気を、おそらく多くの民衆が拍手しているのだろうし、そうやってお祭り騒ぎが盛り上がるなら、それがいちばんなのだ。「お祭り騒ぎ」こそ、この国の伝統なのだ。

山本太郎はべつに、野党共闘の足を引っ張ろうとしているのではない。有権者の四割以上、いるという、選挙に行かない「無党派層・無関心層」にその心意気を訴えているだけだろう。だから、僕のようなノンポリのミーハーも注目するようになった。

もう野党共闘なんかどうでもいい。とにかくお祭り騒ぎになって投票率が上がり、それで結果がどうなるかということを僕は見てみたい。

選挙に行かない「無党派層・無関心層」が主役になることこそ、日本列島の民衆社会の伝統なのだ。古代から祭りの賑わいの主役はいつだって、共同体の外の存在すなわちマイノリティである乞食や旅芸人や旅の僧だった。まあ、そのようなこと。彼らはマイノリティではあったが、権力社会に対するカウンターカルチャーを民衆と共有していたというか、そこにおいて民衆をリードする存在だった。

古代以来の民衆社会の歴史は、日常のいとなみではなく、非日常の「祭り」を基礎にして流れてきた。彼らにとって飯を食ったり働いたりする日常は仮のいとなみであり、そこから超出してゆく非日常の「祭り」こそが生きてあることを実感する節目節目になってきた。日本人の生は、非日常の「祭り」の上に成り立っている。それが、伝統としての「色ごとの文化」なのだ。

人々に「心の華やぎ」をもたらすのは、食うことや働くことではない。心を非日常の世界にいざなってくれる「天皇」や神社の「巫女」や「旅芸人」や「旅の僧」や「乞食」等のいわば「無用者」こそが、民衆社会の歴史をリードしてきた。

山本太郎だって出自は「芸能の民」という「無用者」であり、古代以来そういう非日常的な存在こそが民衆社会のリーダーだったのであれば、彼にはその資格があるし、民衆の心を動かすその能力と魅力がある。

あと二か月、どこまで盛り上がるだろう。

 

 

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『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。

神は、女の性器に宿っている

 

吉野裕子の『日本古代呪術(講談社学術文庫)』は、興味深い読み物だった。日本列島の古代呪術は「女陰信仰」の上に成り立っている、という。それは、僕が考えている「色ごとの文化」の伝統とも通底していることで、なるほどとうなずけることも多かった。

ただ、ちょっと違和感が残るのは、そうした古代呪術がもともと日本列島に存在していた「原始呪術」と中国伝来の「陰陽道」という呪術が「習合」してつくられていった、という基本的な問題設定に対してだった。

陰陽道の影響を受けているのは確かなことだし、「女陰信仰」に上に成り立っているのもきっとそうだろうと思う。だが、なぜそれ以前に「原始呪術」が存在していたと決めつけるのか、そこのところがどうしても納得できない。

古代および古代以前の民衆にとっての「女陰信仰」は、あくまで純粋な「あこがれ」だったのであって、「呪術」ではなかった。

彼女は、原始呪術を説明するのに、沖縄に残るそれを引き合いに出している。これは、現在のこの国の知識人による常套手段である。吉本隆明折口信夫梅原猛、みんなそうだ。しかし沖縄は、地理的な条件からいっても日本列島本土よりもずっと早くから中国大陸との交渉があったのだから、沖縄に残る古い呪術が中国大陸と無縁だったとはいえない。

つまり、本土よりも沖縄のほうが先に中国伝来の「呪術」の洗礼を受けているのだ。そしてそれは、沖縄のほうが早くから「共同体(あるいは国家)」という意識に目覚めたということであり、本土においてはより遅れたまま、いまだにいまだにその意識が希薄で、政治における「無党派層」や「無関心層」がたくさんいる状況のままでいる。そうやっていまだに「女陰信仰=色ごとの文化」が色濃く残っているから、たとえばフーゾク産業で「裸で抱き合っても最後の一線を超えるのはだめだ」などという奇妙な営業システムが成り立っている。また「日本のエロビデオは世界でもっともレベルが高い」などといわれたりするのは、女の喘ぎ方のニュアンスがとても豊かだということにあるらしいのだが、これなどはまさしく「色ごとの文化」の伝統だろう。そうして「女陰信仰」の文化だから、女陰のことを「観音様」と呼んだり、江戸の吉原や京都の島原の花魁が女神のように祀り上げられたりしてきたのだろうし、もともと女の貞操観念が薄い土地柄で今どきは人妻不倫が流行ったりするのも、けっきょく「女陰信仰」の社会だから許されていることにちがいない。キリスト教社会でこんなことは、神も男も許さない。

すなわち「女陰信仰」は、非宗教で非呪術なのだ。

 

 

もともと「呪術」などというものは文明国家から生まれてきたものであり、国家が存在する以前の原始社会に「呪術」が存在していたという考古学の証拠などなど何もない、縄文時代火焔土器土偶が呪術の道具だったということなど、呪術があったという前提の上で学者たちが勝手にそう決めつけているだけであり、僕はそうは考えない。それは、純粋に人の心の「芸術的な衝動」から生み出されてきたものではないのか。「人情の機微」の問題だ、と言い換えてもよい。人としての純粋に造形的な感覚の問題ではないだろうか。

「神は妄想である」とういう本を書いたリチャード・ドーキンスによれば、ポリネシア諸島の人々は「カーゴカルト・ジョン」などといって大航海時代にやってきた西洋人に教えられて初めて「宗教=呪術」に目覚めたらしい。彼らは呪術思想を受け入れることができる思考様式をすでに持っていたが、呪術思想を持っていたわけではない。たとえ両者の思考様式に共通項があったとしても、両者のあいだには越えがたい天と地ほどの隔たりがある。われわれ無宗教のものだってかんたんに「神」という言葉を使いイメージしているが、いざ何かの宗教に入信するときには、越えがたい川を超えてゆく心の飛躍を必要とする。そのようなことだ。

人の心(=思考)は越えがたい川を超えてゆくことができるが、それは何も「宗教=呪術」だけの特権ではなく、学問であれ芸術であれセックスであれときめきであれ憎しみであれかなしみであれ、人の心そのものが「越えがたい川を超えてゆく」はたらきであるともいえる。

まあ、「越えがたい川」を超えて「意識」が発生するのだ。

原始時代に「宗教=呪術」があったと安直に決めつけてしまうべきではない。宗教と非宗教のあいだには、越えがたい川が横たわっている。人類史における「宗教=呪術」は、文明国家から生まれてきた。

 

 

この本の著者である吉野氏は「日本列島土着の原始呪術が陰陽道と習合した」というが、おそらくそうではない。この国の古代以前に「原始呪術」などというものはなかったのだ。もしあったら、陰陽道なんか拒否する。「宗教=呪術」というのは、もともとそういうものだ。「習合」したら霊験がなくなってしまうではないか。そうやって人類は、長い長い「宗教戦争」の歴史を繰り返してきたのであり、今でもそうだ。習合なんかできるはずがない。それでも習合したように見えるのは、陰陽道をもとにして古代の呪術が生まれてきただけのことだからだろう。それは沖縄においても同じであり、古代人がもともと持っていた世界観や生命観に合わせて陰陽道を取り入れていったのだ。そのとき陰陽道は世界最先端の世界観や生命観を説明する学問だったのであり、人々がそれを学び取り入れていったのは自然ななりゆきだったのだろうが、自分たちがもともと抱いている世界観や生命観を変更するわけにはいかなかったために、何とか工夫して折り合いをつけていった。

吉野氏は、古代以前から沖縄も含めた日本列島にあったのは「女陰信仰」だった、という。それが「信仰」であったのかどうかはともかく、古代以前の日本列島ですでに生成していたのは「色ごとの文化」だったのであり、女が中心の世界観や生命観だったのだから、その意味ではきっとそうだったのだろう。

雛祭りの「菱餅」は「女陰」をかたどっているのだとか。なるほど、と思う。神社にある「みてぐら」という「神の座」をあらわす石や岩も「女陰」の象徴である、と吉野氏はいう。きっとそうに違いない。ただ吉野氏はそれを「生命の誕生と再生」の象徴だというのだが、古代以前の世界観や生命観の本質はそんな宗教的呪術的なことではなく、「色ごとの文化」が基礎になっているだけのことだろう。彼らにとっては、「命」がどうのこうのという以前に、心が豊かにときめくとか世界が輝いているということをよりどころにして生きていただけであり、それを基礎にして世界の神羅万象を解釈していたのだ。

命がどうのという理屈は生き延びることにあくせくしている文明人の関心事であって、「もう死んでもいい」という勢いで生きていた原始人においては「死後の世界」も「生まれ変わり」も意識になかった。そんなことは、陰陽道と出会ってはじめて知ったのだ。

 

 

原始神道の「死んだら何もない黄泉の国に行く」という生命観は、「死後の世界などない」といっているのと同じなのだ。古代以前の日本列島の住民はそう考えていたのであり、そんな彼らがどうして「生まれ変わり」など発想できよう。彼らにとっては、その「ない」というそのことが救いで心ときめく大きな関心事だったのであり、その「消えてゆく」ことのエクスタシーこそ「色ごとの文化」の本質なのだ。

そして「死後の世界などない」ということは、仏教や陰陽道が入ってくる前のこの国には「霊魂」という概念がなかったことを意味している。そうして仏教や陰陽道によって「霊魂」という概念を知った彼らは、それと自分たちのもともとの世界観とどう折り合いをつけるかと考えながら「黄泉の国」という概念を生み出していった。彼らの思考においては、「かみ」も「仏」も「死後の世界」も「霊魂」も、「ない=非存在」というかたちで肯定され認識されていった。つまり彼らは、今どきの歴史家よりもずっと高度で哲学的な思考をしていた、ということだ。

日本列島の古代以前の人々は、吉野氏のいうような「生命の再生」などという俗っぽいことを考えていたのではないし、そんなところに日本的な「女陰信仰」の本質があるのではない。そんな現代的文明的な尺度で彼らの心を推量するべきではない。彼らの思考は、もっとプリミティブであると同時に、もっと高度に哲学的だった。

吉野氏は「祭り」と「呪術」を同列に考えてしまっている。そこに、彼女の思考の限界がある。原始的な神道はたんなる「祭り」の習俗だったのであって、「呪術」の要素などなかった。ただもう一方的に「かみ」という「神羅万象の輝き=本質」を祝福し祀り上げていただけであって、それによって何かを得ようというような目的はなかった。「祝詞」というのはもともとそのような性格のものであり、「五穀豊穣」とか「家内安全」とか「厄除け」とか「悪霊退散」とか、そんな「祈願=呪術」は陰陽道の影響としてはじまったことに過ぎない。

たとえば、「言挙げしない」というのは古代人の生活上のひとつのたしなみで、それは万葉集にも書かれてあるのだが、「言挙げ」とは「呪術=祈願」のことだ。万葉集のころにはすでに仏教や陰陽道の影響で「呪術」が広まり始めていたのだが、それでも神道の基本的なコンセプトは「呪術=祈願なんかしない」ということにあった。これは、古代以前に呪術がなかったことの大きな状況証拠である。

上代から古代にかけての最初の神道は、仏教や陰陽道に対するカウンターカルチャーのたんなる「祭りの習俗」として生まれてきたのであり、その後に仏教や陰陽道と習合しながら呪術の要素も加えていった。最初の原始神道においては、「かみ」を祝福しても、「かみ」から何かをしてもらおうというような願いなどなかった。

まあ、呪術の要素を持たなければ、もともとフリーセックスが主たるコンセプトであるお祭り騒ぎはお上からの許しが得られなかったし、やがては「悪霊退散」という汚れ仕事は民衆の神道が一手に引き受けるようになっていった。

「鎮守の森」の「鎮守」とは、「霊鎮(たましず)め=悪霊退散」ということ。そして「天神さま」といえば菅原道真の怨霊を鎮めるための神社だが、民衆はその怨霊までも祝福していった。ただもう他愛なくときめいてゆくのがほんらいの神道であり、呪術もくそもあるものか。

 

 

たしかに古代の呪術や習俗は陰陽道の影響を色濃く受けているのだろうが、吉野氏のいう「女陰信仰」は日本列島独自のものであり、呪術とは別の呪術以前のものとして語られねばならない。この本ではほとんどの記述が陰陽道の影響のことに当てられているのだが、そうではなく「女陰信仰」だけを取り出して語ってほしかった。その「女陰」を古代人は「生命の誕生と再生(=生まれ変わり)の象徴」として考えていたと決めつけられると、ちょっとがっかりしてしまう。「生命」という概念と結びつけると何か高尚な学問的思考のようだが、じつはそれこそが通俗的な思考なのだ。

「女陰」とは「おまんこ」であり、あくまで「セックス=色ごと」の象徴なのだ。そしてその「消えてゆく」ことのエクスタシーこそが日本的な世界観や生命観や美意識の基礎=伝統になっているのであり、そこにこそ人類のもっと深く高度な思想的哲学的な問題が潜んでいる。

「生命」という概念を生き延びたいという現代の文明的な欲望で考えると、ひとまず「誕生と再生」という問題設定になる。しかし「いつ死んでもいい」という覚悟で生きていた古代人や原始人にとっては、「消えてゆく」ことのエクスタシーにこそ命のはたらきの本質があった。

存在と非存在……生き延びようとする欲望が旺盛な現代人が考える命のはたらきは、「存在」に向かうこと、すなわち「存在」を生産し獲得し所有してゆくことにある。しかしわれわれの「今ここ」においては「すでに存在している」のであり、「いつ死んでもいい」と思って生きていた古代人や原始人は、生産し獲得し所有してゆく未来のことなどどうでもよかった。だから彼らにとっての命のはたらきは命を消費することであり「生ききる」ことにあった。すなわち「非存在」に向かって「消えてゆく」こと。彼らにとって「生きる」ことは、「生産」ではなく「消費」だった。

頭の中を文明社会の生産主義に毒された人間が、命とは「誕生と再生(生まれ変わり)」だという陳腐で観念的な問題の立て方をしてしまう。この国の古代や原始時代の民衆は、そんな宗教的妄想で生きていたのではない。ひたすら「今ここ」を「生ききる」ことを願い、そうやって「今ここ」の世界や他者の輝きとの「出会い」にときめいたり「別れ」にかなしんだりしてゆくことの上に彼らの世界観や生命観があった。

彼らにとって赤ん坊が生まれてくることは、「誕生=生産」ではない。そんな今風のもっともらしい観念的屁理屈なんかどうでもよろしい。それはもう、純粋に「出会いのときめき」の体験だったのであり、それ以上でも以下でも以外でもなかった。

セックスをして男の精子を女の体の中に注入すれば月満ちて子供が生まれてくる……というくらいのことは彼らだって知っていたに違いないが、その仕組みを操作し支配しようとする発想などなかったし、操作し支配している何ものかがいるとも思わなかった。ただもう赤ん坊が生まれてきたという事実にときめき祝福していっただけだ。そうやって世界の輝きにときめき祝福してゆく集団行事として「祭り」があったのであって、もともとそれは「呪術」でもなんでもなかった。

彼らは、世界の神羅万象のしくみを知ろうと思ったが、それを支配しようとは思わなかった。そんな人たちのすることを、どうして「呪術」というような手垢にまみれた言葉=概念で語らねばならないのか。

 

 

この記事を書きはじめたときは、吉野氏のこの著作をけなすつもりなどなかったのだけれど、書きながらなんだかだんだん腹が立ってきた。

世の歴史家の、安直に「原始宗教」や「原始呪術」があったと決めつけているその思考が気に入らない。

もともとたんなる祭りの習俗にすぎなかった原始神道が古代の仏教や陰陽道と「習合」しながら「呪術」的な性格を帯びていったことはたしかだろう。しかしそれでも、もともと「呪術」ではなかったのだから、その本質はあくまで「祭り」の習俗だったのであり「色ごと」の文化だったのだ。

日本列島の文化の伝統は、「出会いのときめき」と「別れのかなしみ」にある。古代および古代以前の民衆は、そのことを基礎にしてこの世界の神羅万象を解釈していったのであって、それを操作・支配してゆこうとしたのではない。彼らがそうした「呪術」を中心にして生きていたのなら、いかにもこの国らしい「なりゆきの自然に身をまかせる」という文化など生まれてくるはずがないではないか。

また、なりゆきに身をまかせる文化だから、「出会いのときめき」が豊かになるし、「別れのかなしみ」も深くなる。彼らは、神道の祭りを「出会いのときめき」の場とし、仏教には「別れのかなしみ」を仮託していった。そうやって神仏習合してゆき、神道で結婚をし、仏教で葬式をする、という習俗になってきた。それは、もともと「呪術」の伝統がない風土だったことを意味している。言挙げすなわち願い事などしないで「今ここ」のなりゆきに身をまかせる文化なのだ。

ひとまず形だけ「神だのみ」をしても、それでなんとかなるとは思っていない。神に「たのむ」のではなく、神に「おまかせする」文化であり、そういう「なりゆき」の文化なのだ。それが民衆社会の伝統であり、この違いを踏まえて歴史を考えるなら、そうそう安直に「原始宗教」とか「原始呪術」とか「アニミズム」などという言葉は使えないのだ。

 

 

もちろん、たとえば高松塚古墳の壁画には陰陽道そのものの世界観が描かれているわけだが、それは古代の権力社会が中国文化をまねてそうしただけのことであって、民衆社会にもそうした世界観や生命観が浸透していたとはいえない。

民衆社会は、陰陽道に影響されつつも、つねに原始神道の「色ごとの文化=祝福の文化」を守ってきた。

陰陽道には、方位をはじめとするさまざまな決まりごと(呪術)がある。しかし民衆はそれを基本的には「祝福の作法」というか「生活のたしなみ」に変えてきたのであって、願いがかなうかかなわないかは「なりゆき」しだいだという思いで歴史を歩んできた。だから、かなわなくても神社に行けばあたりまえのようにしておみくじを引く。それは、「祝福の作法」なのだ。神社というめでたい空間に立っていることの浮き立つ気分というか、つまりそうやって「かみ」を祝福する行為としておみくじを引いたり賽銭を投げ入れたりしている。

民衆の祭りの作法に陰陽道の影響があるからといって、いったいそれが何なのだ。べつに陰陽道を心の底から信じているわけではないし、そんなところに民衆の祭りの本質があるのではない。権力社会はともかくとして、民衆の「祭り」の本質は「呪術」にあるのではなく、どこからともなく集まってきた人々が世界や他者の輝きを祝福しつつ無主・無縁の混沌のままに他愛なくときめき合ってゆく、その「賑わい」にある。

古代および古代以前の民衆の暮らしの基礎になっていたのは、純粋な「祭りの賑わい」すなわち世界や他者の輝きに対する「ときめき」だったのであって、世界や他者を支配するための「呪術」だったのではない。そしてそれはもう、日本列島の民衆社会の伝統として現代人の心にも受け継がれている。

だから現在の「無党派層」や「無関心層」を投票所に連れてくるためには、「ときめき=感動」が組織できなければならない。民衆社会のエネルギーは、そこにこそ宿っている。

まあ「正義・正論」なんてただの「呪術」であり、そんなものでは無党派層や無関心層は動かない。

 

 

古代人や原始人が迷信深かっただなんて、何をとんちんかんなことをいっているのだろう。いちばん迷信深いのは、現代人なのだ。

原始社会に「都市伝説」はあったか?あったはずがないだろう。

原始社会に「正義・正論」という名の「法=呪術」で人を裁く制度があったか?あったはずがないだろう。

「呪術」などというものは文明社会が生み出したのであり、現在の政治経済はすべて「呪術」で動いているではないか。

お金=貨幣は、現代社会のもっとも重要な「呪術」のアイコンのひとつだろう。ただの紙切れ(あるいは数字)に「霊力」を吹き付けて食い物や自動車や家と交換できるものにしてしまう。

現代人こそ「呪術」に縛られて生きている。

ヘイトスピーチ……すなわち呪いの言葉。この言葉を吐く者こそが、真っ先にその呪いに縛られている。現在の政治経済の支配層は、そういう者たちの巣窟になっているらしい。

しかし「呪術」は、本質的には日本列島の民衆社会の伝統ではないのであり、観念的には呪術を受け入れつつ、歴史の無意識においてはそれを拒否している。「もう死んでもいい」という勢いで「なりゆきに身をまかせつつ、他愛なくときめき合い助け合ってゆく。

民衆社会の世界観においては、森羅万象はただもう「なりゆき」で動いているだけであり、その動きの法則を知りたがっても、その動きを支配している存在など信じていない。その動きの法則を知りたいからひとまず「陰陽道」を受け入れてきたが、少なくとも民衆社会においてはそれが「呪術」のレベルにはなり切れていない。たとえば、神社の祭祀で「悪霊を鎮める」といっても、悪霊を祝福し祀り上げるのがその作法の伝統になってきたわけで、はたしてそれは「呪術」といえるのだろうか。かたちだけは呪術のような体裁になっていても、内実は呪術ではない。

何しろ「言挙げしない」のが伝統の国柄なのだ。願うことはしても、願いがかなうかどうかは「なりゆき」しだいなのだ。「なる=なりゆき」の文化……「いい社会なろう」と思っても、「いい社会をつくろう」とは思わない。このへんのニュアンスは微妙だが、まあ、だから革命が起きない。

 

 

民衆社会の歴史・伝統においては、「非呪術」の文化が基礎になっている。「呪いや憎しみ」ではなく、「ときめきとかなしみ」の文化なのだ。つまり、権力社会は「呪いや憎しみ」で動いており、民衆社会は「ときめきとかなしみ」で動いている。

「呪いや憎しみ」で生きている人間が成功できるような社会のしくみがあるし、成功できない民衆のくせに「ときめきとかなしみ」で動いている民衆社会に参加できない「嫌われ者」もまた権力社会にすり寄ってゆく。彼らは、ヘイトスピーチという「呪術」でしか生きるすべはない。

原始時代に「呪術」などなかったし、古代においても、それをまるごと信じていたのは権力社会だけで、民衆社会は表面的に影響されても無意識の部分は無垢のままだった。

世の歴史家は、どうしてあんなにも無造作に「呪術」という言葉を使うのだろうか。民衆社会においては、原始時代であれ現代であれ、「呪術」は「けがれ」なのだ。そしてその「けがれ」をそそぐための「みそぎ」の作法として、古代の「神道」が生まれてきた。

人類の歴史のはじめに「呪術」はなかったし、究極の未来にもそれはない。このことが何を意味するかというと、文明社会が「呪術=宗教」から逃れられないかぎり、その「けがれ」をそそぐための「みそぎ」の作法をつねに必要としている、ということだ。

栄枯盛衰とは、社会における「けがれ」と「みそぎ」の反復である。われわれは今、思い切り「呪術的」になってしまったこのうんざりする社会状況の「みそぎ」を必要としているし、そういう動きはささやかかもしれないがたしかに起こりつつある。

死を間近にしている老人である僕としては、生きているうちに、あの執念深く狡猾な右翼たちが慌てふためきながら自滅してゆく姿を見てみたいものだと思っている。

 

 

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キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

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初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。

バブリーな思考と民主主義

 

ひと昔前は5月のことをよく「行楽のシーズン」といった。気候はいいし、連休はあるし、ともあれ行楽地としては、どちらかというと暑苦しい海よりもさわやかな風が吹く北海道や信州に人気があった。

が、それもバブルの時代までのことで、バブル崩壊とともに北海道の巨大リゾートホテルの倒産のことがその象徴的な出来事として大きな話題になった。

信州の清里といえばもともとただのさびしい小さい村だったのに,バブルのころにはなんだか西洋のおとぎの国というかドイツのロマンチック街道のような雰囲気の建物を並べて一大観光地のようになっていた。しかし今やもう、見る影もなく、もとの限界集落になってしまっているらしい。いかにもバブリーなあだ花だった。おそらく東京の企業やマスコミが寄ってたかってそういう場所に仕立てていったのだろう。

ともあれ今年も多くの観光地が賑わうのだろうが、やっぱり歴史を持っている場所は人気が安定している。

奇をてらったようなことをしても、すぐにメッキがはがれる。現在の政治や経済の権力者たちは、実質のともなわない空騒ぎに民衆を巻き込んで支配してしまう、ということを常套手段にしている。メッキがはがれても、しれっとしてすぐ次の手を打ってくる。そういう反復によって民衆をますます愚かにしてゆけば、ますます支配はしやすくなる。もしかしたらそれは、明治維新から敗戦までの社会システムと本質的にはそう変わりないのかもしれない。

おそらくそこには、日本人の民族性というような問題でもあるのだろう。おっちょこちょいな民族なのだ。ときにはそれが果敢な「進取の精神」にもなる一方で、あっけなく権力者に支配されてしまう歴史にもなってきた。

 

 

ともあれ太平洋戦争の敗戦は、明治以来のメッキがはがれた体験だったのだろうか。この国のバブリーな思考は、明治維新のときからすでに始まっていたのだろうか。

いったん身に付いたバブリーな思考は、そうかんたんには捨てられない。国のかたちもそうだが、個人の人生においても死ぬまで成功体験の記憶にしがみついて生きてゆく人は多い。バブルを体験した世代、すなわち現在の50歳以上の世代がすべていなくなったら、少しはましな世の中になるのだろうか。

現在のこの国は、老人や貧乏人などの多くの弱者を切り捨てながら、あの手この手でバブリーな動きを続けようとしているらしい。

表面的にはひとまずバブリーな動きはあるとしても、ほんとに人の世として活性化しているのだろうか。富裕層はたくさんいてわが世の春を謳歌し、そこにあこがれている人も少なからずいるのかもしれないが、明日食う米もないという人や生ける屍のようになってしまっている老人もどんどん増えてきていて、しかも政治はそこに手を差し伸べようとしないし、資本家は知らんぷりをするどころかさらにそこからも搾り取ろうとしている。

バブリーに生きるのが価値で、バブリーに生きている人間が大手を振ってのさばっている。

政治家は「国民を豊かにするのが私の仕事だ」といけしゃあしゃあという。そんな理屈が通じたのはバブル時代のことで、現在の政治家のなすべき喫緊の仕事は、「困っている人に手を差し伸べる」ということだろう。そんなことをしたら景気が冷え込むとかというのだけれど、困っている人が助かるのなら、冷え込んだっていいではないか。

今どきは、緊縮財政とやらで、維持にお金のかかる国の財産はどんどん民間に売り飛ばしている。そうなったらお金のない人はますますサービスを受けられなくなるのだが、そんなことは知ったことではない。彼らのいう「国民を豊かにする」とはつまり、豊かになれる人間だけが大事で、豊かになれなれない人間なんか粗大ごみと一緒でどうでもいい、ということだ。新自由主義、そんなことは自分でなんとかしろ、という。そうやって人と人の関係がどんどん壊れてしまっている。彼らには、豊かになれない人間に対する愛がない。「悲劇」に対する感受性がない。「悲劇」を意図し無感受性がなくて、どうして人間といえるだろうか、日本列島の伝統を大事にしているといえるだろうか。「あはれ。はかなし」や「わび・さび」の美意識とは、「悲劇」をいとおしみ抱きすくめてゆく感受性のことだ。

バブルのときのように国の財政を安定化させ豊かにすることがそんなに大事か?富裕層の既得権益の維持安定のために、貧しい者たちからどんどん搾り取る。富裕層はどんどん資産を増やし、最貧層はますます貯蓄ができなくなってゆく。

 

 

「家貧しうして孝子あらわる」ではないが、国民のだれもが貧しかった終戦直後は、それなりに人と人のときめき合い助け合う関係が機能していたし、豊かな娯楽文化も花開いていった。今どきは「少子化」とか「人口減少」などというが、あのころは貧しくてもどんどん結婚しセックスしまくっていたから、どんどん人口が増えていった。

いろんな少子化対策があるのだろうが、とにかく人と人の関係が健全に機能している社会でなければ、何も始まらない。あんまり正義ぶった顔はするな。正義ぶることこそが、人と人の関係を分断してしまう。

誰もが他愛なくときめき合うことができる社会こそ、人類史の原点であり、究極の理想なのだ。

孔子が「家貧しうして……」というときの「孝子」とは、「親孝行する子」という意味ではない。一般的にはそのように解釈されているが、そうではない。「孝」とは、親子であれ何であれ、「人間のプリミティブな情愛・心映え」のことをいうわけで、「孝子」とは、親が思い切り愛情を注ぐことのできる子のことであり、深く親を慕っている子のことであり、つまり、ほんものの人としての情愛は貧しい家ではぐくまれている場合が多い、ということだろうか。

まあ、親とってかわいくてしょうがない子を「孝子」というのだし、無条件い親を慕っている子を「孝子」という。親孝行がどうのというような話ではない。「ばかな子ほどかわいい」ということわざもあるが、この場合の「ばかな子」だってまぎれもなく「孝子」であり、とにかく孔子は「人としての情愛が豊かに生成している家」のことを語りたかったのだ。

今どきは出世することが親孝行であり、それを「孝子」といったりしているわけだが、論語はべつに出世することの素晴らしさというような、そんなバブリーな思想を説いているのではない。

孔子の時代なんか、貧しい家の子は貧しいまま一生を終えるのが当たり前だったのだし、貧しい家からは人としての情愛の豊かな人間が育ってくる場合が多い、といっているだけなのだ。孔子は、「立身出世」を説いたのではなく、「人としての情愛」すなわち「人情の機微」を説く達人だったのであり、そこにおいて普遍的な評価を確立しているのだ。

「家貧しうして」ということは、バブリーなことを考えていたら孝子なんかあらわれてこない、といっているのと同じだろう。まあ心というか感受性が豊かであれば、「孝子」にちがいない。そうやって君主と家臣であれ、君主と民であれ、親と子であれ、「人情の通い合う関係」を説いているのであり、それゆえにこそ長く読まれ続けてきたわけで、それが人の世の基礎であり究極のかたちだからだ。

現在のこの国の人々は、「人情の通い合う関係」になっているだろうか。通い合っているところもあれば、通い合っていないところもあり、ぶんだんしゃかいというなら、全体としては通い合っている状況になっていない、ということだろうか。

「人情が通い合う」とは、どういうことだろうか。おたがいに相手のことが好きでも、人情が通い合っているかどうかはわからない。好きになるなんて、かんたんなことだ。自分の得になるなら、好きでいられる。自己愛として相手を好きになる、という関係がある。

「人情が通い合う」ことは、あんがいかんたんではない。何かを飛び越えてゆく「心意気」が必要になる。つまり「感受性」が欠落していたら、そんな関係にはなれない。

現在のこの国は、そういう「感受性」が豊かに育つような仕組みになっていない。

こんな不景気な時代になっても、われわれはまだバブリーな思考から抜け出せないでいる。状況的には貧しいのに、「孝子」があらわれにくい。物理的な状況は貧しくても、精神的な状況がバブル時代からあまり変わっていない。

 

 

日本人は状況に流されやすい……それはまあ、そうかもしれない。しかしだからこそ、知性や感性が豊かな「孝子=ヒーロー」があちこちからあらわれてくれば、精神的な状況も変わってくる。

けっきょく、日本列島の伝統的な精神風土とは何か、という問題だろうか。日本人は、バブリーなことを考えたがる民族だろうか。

バブリーな思考とは、ようするに「死んだら天国(あるいは極楽浄土)に行く」という思考であり、それに対してこの国の神道では「死んだら何もない真っ暗闇の黄泉の国に行く」と考えられてきた。それは、みごとにバブリーではない。日本人が思い描く死の世界に何の価値もないのに、それでもほかの国以上に死に対して親密なところがある。その「何もない」というそのことに引き寄せられているのであり、それはまさしく「家貧しうして」の世界観であり生命観である。

「あはれ・はかなし」「わび・さび」の美意識・世界観は、バブリーな思考とは対極にある。

「生命賛歌」というバブリーな思考は、日本列島の伝統にそぐわない。生きてあることに価値を置く文化ではない。「あはれ・はかなし」や「わび・さび」は、生きてあることの「嘆き=かなしみ」から生まれてくる。そうやって「悲劇」をいとおしみ抱きすくめてゆく。

天皇が「現人神」であるとか「大元帥閣下」であるとか「国の家長」であるとかという思考はきわめてバブリーな思考であり、もともとは政治なんかとは無縁「内裏(だいり)」の奥に隠れているのが存在だった。ほんらいの天皇は、けっしてバブリーな存在ではない。天皇は「美しい」存在であるが、「偉大」な存在であるのではない。

日本列島の「色ごとの文化」は、「ない」に向かって「消えてゆく」ことの醍醐味(エクスタシー)の上に成り立っている。そうやってもともと自意識を消してゆく文化であるがゆえにすっかりバブルの色に染められてしまったが、それゆえにこそ、何かのはずみであっさり忘れてしまう可能性もある。

 

 

この国に「神の教え」などないのであり、神道の「かみ」は、教えを持たない。「教え=規範=戒律」を持たない宗教などないのであり、ほんらいの原始的な神道は、宗教とはいえない。すなわち、無原則の文化なのだ。原則を持たないことが原則の文化なのだ。だから、大日本帝国教育勅語にも、バブル思考にも、新自由主義グローバル資本主義にも、あっさり染められてしまう。しかしだからといってそれらが日本列島伝統の思考様式だというわけではない。どんな価値観もひとまず受け入れるというのが伝統であるのだが、それはどんな価値も信じていないのと同じであり、何でもかんでも受け入れつつ、何でもかんでもアレンジ・デフォルメしていってしまう。

価値なんか信じない。価値を壊したり捨てたりしてゆくことにカタルシスがある。そのカタルシスを体験するために、ひとまず価値を受け入れる。価値がいらないというのではない。価値が「消えてゆく」その「過程」にカタルシスがある。「消えてゆく」ためには、まず「存在」しなければならない。

その「消えてゆく過程」を、「あはれ・はかなし」とか「わび・さび」という。

敗戦直後には、大日本帝国主義の価値観が消えてゆくカタルシスがあった。バブル崩壊のときにもそれはあったし、阪神淡路大震災のときや東日本大震災のときにもあったし、そういうときにこそ人々の心は高揚し、ときめき合い助け合ってゆく。

孔子が「家貧しうして孝子あらわる」といったのも、まあそういうことなのだ。

したがってこれは、日本列島の伝統であると同時に、人類普遍のカタルシスのかたちでもある。

 

 

現在のこの国の状況であるこの鬱陶しいグローバル資本主義や右翼ヘイト騒動は、いつ崩壊してゆくのだろうか。

グローバル資本主義の世の中であっても、われわれのふだんの暮らしにおいては、そんなシステムが無意味であるかのようなかたちでときめき合ったり助け合ったりということをしている。なぜならそこにこそこの生のカタルシスがあるわけで、人々が嫌だと思ってそういう暮らしをしていれば、そのシステムはいずれきっと崩壊してゆく。

それを崩壊させるのは、人間性の自然なのだ。

あなたは人間性の自然を信じることができるか?

原初の人類が二本の足で立ち上がったとき、ひとりのボスの統治支配のもとに集団として結束してゆくという生態を失い、ボスのいない混沌のなりゆきのままにときめき合い助け合い連携してゆくという生態の集団になっていった。そのとき二本の足で立つ姿勢を常態にして生きるということは、姿勢の安定や俊敏さを失うと同時に、胸・腹・性器等の急所を外にさらしてしまうことであり、さらには腰や足にとても負荷がかかるために、とうぜん寿命も短くなってしまった。そのとき人類はいったん猿として「死んだ=滅びた」のであり、猿よりも弱い猿になってしまったのだ。つまり、だれもひとりでは生きられない存在になってしまったのであり、しかしだからこそ、助け合い連携してゆく関係が生まれてきた。そして助け合い連携してゆく関係が生まれてくるためには、ときめき合っていなければならない。

そのとき人類は、猿として生きる能力を失った。天敵から逃げる能力も、同じ猿どうしでテリトリー争いをする能力も、味方どうしで争って順位を決めたりボスになったりする能力も失い、おまけのその不安定で大きく負荷のかかる姿勢のために寿命も短くなった。だがそれによって、ときめき合い助け合うという猿にはない能力を身に着けてゆき、さらには一年中発情しているようになって爆発的に人口を増やしていった。

人類の直二足歩行の起源はまさに「家貧しうして孝子あらわる」という体験だったのであり、そしてさらに、それこそが「民主主義の起源」だったのだ、ともいえる。

人類の歴史は民主主義としてはじまり、それこそが究極の理想にもなっている。文明社会の政治形態の歴史はさまざまに推移してきたが、けっきょくはそこに還ってゆくのだろう。

人類社会の伝統は「民主主義」にあり、すべての支配体制は「民主主義」によって淘汰されてきた。

現在の世界の人々が何に支配されているのかということは、あれこれ錯綜していてとてもなやましい問題ではあるのだが、いかなる支配もいずれは「民主主義」によって淘汰される、と僕は信じている。それは、人間を信じる、ということだ。

人間とはときめき合い助け合い連携してゆく生きものである、と僕は信じている。

 

 

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キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

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『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

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です。

選挙にいく理由

 

この数年間、選挙といっても大して面白いことも起きなかったし、関心なんか持たないほうが精神衛生にはいいのかもしれない。

ひどい世の中になってしまったものだと思う。そもそも社会のシステムそのものが腐っているのだろう。

多少なりとも自分に世の中を変える力があるのなら奮い立ちもするのだろうが、今さらそんな元気もない。ただただもう、かなしいやら情けないやら。

認知症になりたいとは思わないが、源氏物語の姫君たちのように、ひたすら嘆きかなしみながら衰弱して死んでゆくことができるのなら、それはきっと素敵なことにちがいない。

生きていてもしょうがない身であるのに、それでもまだ生きている。それはきっと世界が輝いているからだろうし、世界の輝きにときめく気持ちが消えないからだろう。だから、世界の輝きにときめきながら衰弱して死んでゆくことができたら、それがいちばんめでたいことにちがいない。

この生は、世界の輝きにときめきながら活性化し、ときめきながら衰弱してゆく。人は、そのはざまを生きている。

政治のことなんかどうでもいいといっても、べつに無知であるからでも愚かであるからでもなく、それ自体が世界の輝きにときめいていることの証しでもある。

それにしても、日本列島の住民は、どうしてこんなにも支配権力に従順な歴史を歩んできてしまったのだろう。まったく日本人というのは因果な民族だと思う。

どんなにひどい政治であっても、目の前の「あなた」や「世界」は輝いている。「うんざり」することと「ときめく」ことは一枚のコインの裏表のようなもので、「うんざり」することだけで生きることなんかできないわけで、いつの間にかそれを忘れて「ときめいて」いる。

政治の世界なんか、うんざりすることばかりだ。日本列島の民衆に「政治を変えよう」と呼びかけても、けっして大きなうねりにはならない。そもそも政治なんかに興味がない歴史を歩んできたわけで、政治の世界はいつの時代も醜かった。この社会をよくしたいと思うのなら、それは民衆自身の人と人の関係の問題であって、政治の世界を当てにすることなんかできない……という思いがどこかしらにある。

僕だって、いっとき選挙のことに興味を持ったが、それは「お祭り」としての選挙であって、「政治」としての選挙ではない。人は政治に動かされて生きているのだとしても、政治に動かされていない部分のことが知りたい。

日本人は政治に関心がないからだめだといわれても、知りたいのは「政治」のことではなく、「なぜ政治に関心がないか」ということだ。

天皇制のせいだろうか?

 

 

明治以来の大日本帝国主義においては、天皇は「現人神(あらひとがみ)」であり「大元帥閣下」であり「国の家長」であった。権力社会から下りてくるその思考の、なんと醜悪なことか。歴史の無意識として民衆の心の底に宿る天皇はそんな対象ではないのだが、何しろ歴史の無意識なのだから、それが表立った自覚にはなっていなかった。無自覚ゆえに、ひとまずその思考を受け入れていった。

国家の政治権力は、人の心を醜悪にしてしまう。民衆はみずからの歴史の無意識=伝統に無自覚だから、ひとまずその醜悪な思考を受け入れてしまい、ときにはそれが伝統だと思い込んでしまう。そう思い込ませたものと思い込まされたものが結託して「右翼」という勢力になってゆく。

しかし、地下水脈として民衆の心の底に流れる歴史の無意識が途絶えることはない。あの大日本帝国の治世下においても途絶えることはなかったからこそ、敗戦後には、人間宣言をした天皇とともにさっさと憲法第九条を掲げて歩み始めた。

たしかに戦前の民衆は、大日本帝国主義に身も心も染められてしまっている部分はあったのだが、それでも「ひどい政権だ」という思いもなかったわけではないし、その思いをなだめるのに天皇の存在が機能していた。どんなひどい政権のひどい時代であっても、天皇が受け入れているのなら、自分たちだって受け入れないわけにはいかない、と。

人々の暮らしの隅々まで国家権力によって統制されていったあの時代を、祭りの混沌とした賑わいを愛する日本列島の民衆が快く思っていたはずがない。

あのころもまた、きっとひどい時代だったのだし、それでも民衆は、民衆自身の集団性の文化を守って生きようとしていた。まあだから、「あのころはよかった」などという述懐も生まれてくるわけだが、それは政治制度の話ではない。

どんなひどい時代であれ、社会の片隅における輝きはある。

 

 

敗戦直後の日本列島の民衆は、「明るい明日の日本をつくろう」というスローガンのもとに結束していったのではなく、ただもう歌謡曲や映画やスポーツ等の娯楽産業を盛り上げながらの「祭りの賑わい」を盛り上げていっただけだった。そのとき人々の心は、みじめな敗戦に打ちひしがれていたと同時に、解放感で大いにはしゃいでもいた。明日に向かってがんばろうと結束していったのではない。結束することなんか、もうごめんだった。生き残った拾い物の命の中で、だれもが国家の制度や秩序など信じないという、その混沌の賑わいとともにときめき合い助け合うという豊かな「連携」を生み出し、それが戦後復興のダイナミズムになっていった。

日本列島の民衆は、伝統的に国家など信じていない。だから、国家制度とは別の民衆独自の自治の文化を育ててきたのであり、それが現在の、政治に対して無関心な無党派層が4割以上いるという状況を生み出している。そうやっていつの時代もどんなひどい政権でも受け入れてきたし、しかしそれは、そのぶんスムーズに時代の変化に対応してゆくことができるということでもある。この国の歴史においては、伝統を超えてゆくことが伝統になっており、それを「進取の気性」という。そうやって戦後復興がはじまった。

そして「進取の気性」は普遍的な人間性でもあり、そうやって人類の歴史は進化発展してきた。

「進取の気性」すなわち「進化」とは、生き延びようと計画することではなく、「もう死んでもいい」という勢いで異次元の世界に超出してゆくことだ。すべての生きものは、「もう死んでもいい」という勢いで生きている。

敗戦直後の日本列島だって、そういう「もう死んでもいい」という勢いのお祭り騒ぎのエネルギーで復興していったのだ。そのころ、笠置シズ子の『東京ブギ』とか美空ひばりの『お祭りマンボ』のような洋風モダンでにぎやかな歌謡曲もけっこう流行った。それを「アメリカかぶれ」といおうと、伝統を超えてゆくのがこの国の伝統であり、良くも悪くもおっちょこちょいで異次元の世界に超出してゆくのだ。

伝統とは「究極」を目指すことであって、ただ古いものを守るということではない。

法隆寺薬師寺を建てた宮大工たちは、千年後の姿を念頭に入れながら仕事をしていたという。寺院建築だけではない。日本列島の職人仕事には、職人の手を離れた後の五十年百年千年の自然の「風化」にさらして初めて完成する、というようなコンセプトの作品がいくらでもある。まあそれも「わび・さび」の文化だし、そもそも人類の歴史遺産というのがそのようなものだし、「廃墟の美」というのもある。

伝統を超えてゆくのは自然であり、自然が伝統なのだ。

 

 

現在の、このうんざりするような時代状況に出口はあるのだろうか。

出口なんかなくてもよい。とりあえず生きていれば、何かと出会うし、何かが起きる。それでも世界は輝いている。そういう小さな世界に「かわいい」とときめき、しみじみと癒されてゆくことがあるのなら、生きていられる。日本人が政治に無関心であるのはそういう感性というか世界観がはたらいているからだろうが、それでも生きてあるこの命のはたらきを無駄に放っておくことはできない。ちゃんと使い切らないことには、生きてあることとの折り合いがつかない。生きてゆくためではない。どうせ死んでゆくのだもの。使い切らないと、死んでゆくことができない。

死んでゆくことができない生き方なんかしたくない。

生きることは、エネルギーを消費するはたらきであり、死んでゆくいとなみである。死んでゆくことができない生き方なんかできない。死んでゆくというかたちでしか生きるいとなみは成り立たない。

そうやって人は、「もう死んでもいい」という勢いで何かをする。そうやって、この生のエネルギーを消費する。人間のすることはすべて、自分の命と引き換えの行為なのだ。そうやって、他者に命を捧げるようにして人はプレゼントという行為をする。命を捧げるようにして、赤ん坊を育てる……そんなことは、犬や猫や鳥でもやっている。

僕だって、だれかに捧げるようなつもりでこの文章を書いている。すべての生きものは、この世界の「生贄」なのだ。

生きることは「生贄」になることだ。「生贄になる」とは命のエネルギーを使い果たすということであり、命のはたらきとは生きるはたらきではなく死んでゆくはたらきなのだ。

このうんざりするような時代状況の出口が見えないのは人々が生き延びることを争っているからであり、争うことをやめて「生贄」として死んでゆくスタンスに立てば、「今ここ」が「出口」になる。

まあ現在のこの社会は、「階層化」とか「分断化」とか「閉塞状況」などのキーワードで語られる状況になっているらしく、その出口の先にある未来の新しい社会に向けて盛んに議論されているわけだが、そうやって「未来」を模索すること自体が「閉塞状況」から逃れられないことの証しで、未来に行っても新しい「閉塞状況」が待っているだけかもしれない。そうして、永遠に出口を探し続けていかなければならない。

人間にとっては生きてあることそれ自体が「閉塞状況」なのであり、未来に自由や解放が待っているのではない。この生の出口は、「今ここ」にある。「今ここ」に出口を見出すことが生きることであらねばならない。そうやって人は、遠くの青い空を仰ぎ、片隅の小さなものに「かわいい」とときめいてゆく。人の心のはたらきの「超越性」、それが「出口」を発見し、ときめいたりかなしんだりしている。

「未来」なんかあてにしないのが日本列島の伝統であり、それが普遍的な命のはたらきのかたちでもある。

生きてあること自体がひとつの「閉塞状況」であり、だから人はそれを受け入れるし、だからその状況の「今ここ」に出口を見出す。まあ日本人はそういうことが上手だからかんたんに支配されてしまうし、支配されるからこそなおのこと民衆独自の集団性の文化を守り育ててきた。

つまり、「支配されるもの」にしか「出口」を見出すことはできない、ということ。そして民衆は、この世界の「生贄」になる覚悟で支配されてゆく。「生贄になる」ということが、「出口を見出す」ということだ。

 

 

人類史において、文明国家の発生とともに「支配」と「被支配」の関係が生まれてきたのは、人々の心に「生贄」になろうとする衝動があったからだ。その心に乗じて、支配者が登場してきた。

だれもが「生贄」になろうとしている社会では支配と被支配の関係なんか生まれてこないし、だれもが「生贄」になろうとしているから支配者が生まれてくる。

そこで、支配者が生まれてくる状況がどこにあるかといえば、余剰の生産物ができてきてそれを手に入れようとする者があらわれてくることにあるのだろうか。

余剰の生産物が生まれてくるのは、集団の人口が増えみんなで農耕してたくさん収穫するということが起きてきたことの結果なのだが、それだけではまだ人々は平等だし、原始的な狩りや採集よりももっと平等になる。基本的にその段階では余剰のものなどつくらないのだが、人口が増えすぎて集団の運営に混乱が起きてくればまとまりをつくろうとするし、まとまるためのリーダーをみんなで選ぶようになる。そうして集団の運営をするリーダーは複数になってゆき、それでもまとまり切れなくなれば、もっとも美しく魅力的なカリスマをみんなで見出して祀り上げ、捧げものをしてゆくようになる。それが、祭りのときのアイドルである「処女の巫女」の集団であった。で、その捧げものや巫女の集団を管理運営するものとして「支配者」が現れてきた。少なくとも弥生時代奈良盆地ではそうだった。彼らには、力で民衆から搾取してゆくという能力はなかった。なぜならそこは外敵が攻めてくるようなところではなく、戦争の文化がなかった。であれば、外敵から民衆を守ってやる、という搾取のための理由がなかった。彼らにとっての支配のための大義名分は、巫女集団を庇護・管理し、その中もっとも美しく魅力的なカリスマの権威を高めてゆくことにあった。まあ、それによって民衆の捧げものが増えていった。

というわけで、古代の大和朝廷はたしかに支配者集団であったものの、それほど強い権力があったとも思えない。祭りのカリスマを祀り上げようとする民衆の側に支配される理由があっただけなのだ。

日本列島の民衆には、支配されやすい心がある。民衆には民衆独自の原始的な集団性の文化があり、異質な権力社会の政治に無関心になりがちだ。それに、「無常感」とか「あはれ・はかなし」や「わび・さび」とかの、いわばマゾヒスティックな美意識や世界観に付け込まれ、支配されてしまう。

古代の大和朝廷にそれほど強い権力などなかったのに、それでも民衆はたやすく支配されてしまった。日本列島の民衆には、この世界の「生贄」になろうとするマゾヒスティックな衝動がある。

 

 

日本人の政治に対する関心の薄さはもう、避けがたいことではないかと思える。

もちろん、直接的な利害関係があればその限りではないが、関心がないということ自体が日本人としての意識の高さになっている部分もあって、選挙にいかない知識人の人だってたくさんいる。

政治的な関心だけで日本人を選挙に行かせることはできない。どのようなニュアンスであれ立候補者の人間的な魅力で引き付けるとか、お祭り気分にさせるとか、そういうことが必要になる。

何しろ「色ごとの文化」の国なのだ。美しく魅力的なことや、無主・無縁の祭りの賑わいの要素がなければ、無関心層を政治の場に参加させることはできない。

しかし「色ごと」の醍醐味は「消えてゆく」心地にあり、そうやって人はだれもが、他者の「生贄」になって他者に手を差し伸べようとする衝動を持っている。無関心層の人に「自分の利益のために選挙に行こう」と呼びかけても無駄だ。そういう人には「あなたが選挙に行くことは困っている人に手をさしことになるのです」と訴えるべきなのだ。誰だって、困っている人に手を差し伸べることは気持ちのいいことだ。選挙に行くことは、権利でも義務でもない、「自己犠牲」なのだ。国の平和と繁栄のためではない、生きられない人を生きさせるためだ。それが、「色ごとの文化」の国の選挙に行く理由なのだし、その理由を人々に気づかせる候補者が現れてこなければならない。

 

 

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『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

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『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

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