非武装中立という処女性

れいわ新選組共産党が、連合政権構想の話し合いを始めるという記者会見があった。

市民たちは、それを歓迎するだろうか。

両党はそれを立憲民主党や国民民主党とのあいだまで広げてゆきたいというが、立憲・国民には共産党アレルギーの議員も少なからずいるし、それが向こう側の主導するかたちになれば、けっきょくあいまいなままいつまでたっても前に進まないということになりかねない。なぜなら、共産党アレルギーの議員たちのほとんどはたぶん、自分が議員でいられるのなら野党のままでいいと思っているし、党首たちも自分が党首であり続けることを優先して考えているからだ。

であれば、れいわ・共産は、いざとなったら袂を分かつという意気込みを示し、なおかつ両党を合わせた支持率が立憲・国民を上回って相手に危機感を抱かせるようにならねばならない。

ほんらいなら、議員でいたいだけとか党首であり続けたいだけという連中は全員追い出すくらいの勢いがなければ前に進まない。

たぶん、国民の男の多くは共産党に対する拒否反応を残していて、立憲・国民の男の議員たちは共産党を排除しなければ国民の支持を得られないと思っているようだが、世の中の女や若者たちはそれほどでもない。

それに、立憲・国民は共産党と敵対関係にある連合の支持を当てにしているという事情もある。現在の連合の幹部たちのほとんどは既得権益をむさぼる「労働貴族」化していて、ときに自民党寄りの政策を要求してきたりする。連合は主に大企業の労働組合によって成り立っており、自民党は大企業だけが繁栄する政策をとり続けている。

もしも現在において、選挙に行かない無関心層の民衆を巻き込んで政権交代を起こそうとするなら、立憲・国民はもはや、連合と決別して共産党と手を取り合う覚悟をしないといけない。連合の資金や票の援助はありがたいのかもしれないが、名もない民衆のほうがはるかに大きな票の塊を持っているのだし、そこを掘り起こさなければ政権交代にはならない。

もちろん共産党天皇制に対する考えは大いに疑問だが、貧しい民衆を掬い上げたいという政治姿勢においては山本太郎と一致している。それに対して立憲・国民は、党首をはじめとして場当たり的な損得ずくで動いている印象があり、今や多くの民衆から幻滅されている。

損得ずくで動く連中をなだめすかして手を組んでゆこうというのだから、れいわ新選組共産党も大変である。

 

 

状況しだいではれいわ新選組だけの独自路線で衆議院選挙に挑む可能性も残されている。そうなったらとうぜん政権交代は遠のくが、立憲・国民両党は大きく議席数を減らし、その後の野党共闘はれいわ新選組中心に傾いてゆくことになる。

じっさいのところ、今や与党も野党も大手術が必要なのかもしれない。政治家が腐りすぎているし、日本人全体もあたりまえの人間らしさを失っている。

だからこそ、人間らしさを取り戻そうとするムーブメントとして、山本太郎とれいわ新選組が熱く支持されている。

今のところ支持者以外は、右翼も左翼もれいわ新選組を「ポピュリズム」などといって過少に評価する傾向があり、そのブームが人間性の本質に由来していることを見ようとしていない。

「生きられない弱いもの」を生きさせようとするのは人間性の本質であり、それは「そうするべきこと」ではなく「そうせずにいられないこと」であり、その「思いの丈」こそが人間性の本質であって、「正しい」とか「賢い」というようなことではない。

立憲民主党枝野幸男は、「正しい」とか「賢い」とかということにとらわれすぎており、そこが彼の政治家としての限界である。民衆はというか人は普遍的にそんなことを第一義にして生きているのではない。山本太郎のような、生きられない弱いものを生きさせようとせずにいられないその熱い思いの丈がなければ、民衆はリーダーとして祀り上げようという気にならない。

「熱い思い」こそが新しい時代を切りひらくのであって、「正しさ」や「賢さ」によってではない。それはもう歴史の法則であり、歴史は人間の計画した通りに動いてきたのではない。

ことに日本列島の民衆社会の伝統においては、「生きられない弱いものを生きさせようとせずにいられない思いの丈」が大切にされてきたのであり、その「思いの丈」のよりどころとして天皇が祀り上げられてきた。

 

 

もともと天皇は、民衆社会の「生贄=生きられない弱いもの」として生まれ育ってきた。

「生贄」を祀り上げることは、人類社会普遍の伝統である。まあ、「生贄」を殺すことも生きさせることも、「祀り上げる」という行為なのだ。

世界の輝きが人を生かしている。だから人は何かを祀り上げずにいられない存在であり、人類社会は昔も今もつねに祀り上げる対象としての「生贄」を必要としている。

「生贄」とは、生きられない悲劇的な存在である。人はその「生きられなさ」を祀り上げる。この世のすべての崇高なものや美しいものや魅力的なものは、この世のものとは思えないような「生きられなさ=生贄」の気配を宿している。だから、冒険活劇の映画のクライマックスでは主人公が死にそうになる。英雄だろうと美女だろうと障害者や病人だろうと、「生きられなさ」の気配においてもっとも崇高に美しく輝く。

人は根源において生き延びるための「正しさ」や「賢さ」や「強さ」を祀り上げるのではない。「生贄」としての「生きられなさ=悲劇性」こそこの世のもっとも崇高で美しい姿であり、そのようにして天皇が祀り上げられてきた。人間社会は普遍的に、そのようにして人と人がときめき合い助け合いながら活性化してゆく。

現在のこの国のヘイトスピーチまみれの社会なんか停滞し病んでゆくだけだし、それは天皇制からもっとも遠い社会状況なのだ。彼らは天皇を賛美しつつ、もっとも天皇を冒涜している。

天皇が、ヘイトスピーチを望んでいるか?総理大臣から名もないネトウヨの民衆まで、その醜く卑しい態度を喜んでいるか?まあそんなことに血道を上げているのは国民の1割か2割くらいのものだが、そういう連中ばかりが時代の表層に立って大騒ぎしているからややこしいことになってしまっている。彼らは、そのことにうんざりしている民衆の多くが目覚めて選挙に行ったりすることをとても恐れている。だからなおさら声高になるわけだが、そうやって異質な他者や「生きられない弱いもの」としてのマイノリティを排除しようとするのは、世界を祝福する装置である天皇制のもとの国民がとるべき態度ではない。

 

 

「祝福」すれば、「贈り物=ギフト」をしたくなる。人の世は、「贈り物=ギフト」の衝動の上に成り立っている。まあ、お母さんが赤ん坊を育てようとすることは「贈り物=ギフト」の衝動であり、そこにこそ人間性の自然も生きものとしての自然もあるわけで、それはだれの中にも宿っているところの、命のエネルギーを消費しようとするごくあたりまえの命のはたらきでもある。

親鳥が雛に餌を与えることは、命のはたらきの自然にかなっている。本能がどうのという必要もない。

もともと猿であった原初の人類は、「贈り物=ギフト」の衝動を特化させることによって「人間」になったわけで、それは、「世界の輝き」に深く豊かにときめく存在になった、ということでもある。

「ときめき」がなければ、人は生きられない。だって、生きていてもしょうがないこの命を生きているのだもの。

物を売ることだって本質的には「贈り物=ギフト」の行為であり、だれもが他者にときめき、だれもが他者を喜ばせようとし、だれもが「生きられない弱いもの」に手を差し伸べようとする社会になれば、もはやあのネトウヨたちに出る幕はないし、そういう社会にさせてなるものかと彼らはがんばる。

彼らは、生きることは競争であり敗者を排除してゆくことだと思い込んでいる。それがまあ現在の社会システムであるし、他者とときめき合うことができないものはそこで生きようとする。しかし人が人であるかぎり、ときめき合い助け合って生きようとする衝動というか願いはあるわけで、ヘイトスピーチまみれの人の世であり続けることはできない。

だれだって、道路を渡れない子供やおばあさんがいれば、手を引いて渡ってやろうとするだろう。それだけのことで、その「贈り物=ギフト」の衝動こそが人間であることを成り立たせているのだし、その衝動が豊かに生成していなければ社会は活性化しない。

現在のこの国の社会は停滞し病んでいる。そんなことくらいはだれもが知っているのだが、それでも「このままでいい」と思っている民衆や「このままでいたい」と思っている既得権益の中にいる支配者やエリートのネトウヨたちがいて、このままのシステムに参加しておこぼれを頂戴しようとしている者もいれば、とにかくヘイトスピーチがしたいだけの理由で現在のシステムを肯定している下層のネトウヨもいる。しかしそんな者たちは、たとえこの社会を動かしていようとこの社会のごく一部であり、ほとんどの者たちは、うんざりしているかあきらめて途方に暮れてしまっているかのどちらかだろう。

 

 

無党派層のほとんどが選挙に行かないのは、それが社会のシステムに参加することだという認識があり、それを拒否しているからだ。意識の高い者たちはもちろんのこと、おバカな若者たちだって潜在的にはそういう認識を持っている。

現在のこの社会のシステムは、参加するに値しない。会社や学校に行くことは仕方ないとしても、選挙にまで参加したくない……彼らはそう思っている。

したがって、「このシステムを壊してしまおう」と呼びかけるものが登場してこなければ、彼らは選挙に参加しない。その呼びかけをしたのがまあ「NHKをぶっ壊そう」というN国党であり、「消費税廃止」を訴える山本太郎とれいわ新組だったわけだが、残念ながら選挙期間中はマスメディアに扱われることがなかったから、ほとんどの無党派層は眠ったままだった。

ともあれ両方とも、今回の選挙結果によってひとまず政党要件を満たした。

れいわ新選組がさらに広く認知されるためには、これからの活動にかかっている。彼らは現在のシステムにしがみついている者たちの反感を大いに買ったが、庶民だけでなく多くの知識人の支持も獲得している。ただのポピュリズムではない。N国党と違って、人としての本性に訴える哲学というか普遍性をそなえている。

民衆の中の人としての本性は、ヘイトスピーチにうんざりしている。人は、人としての本性を置き去りにしてヘイトスピーチに熱中してゆく。

人としての本性は世界の輝きを祝福してゆくことにある。そしてそれをもっとも豊かにそなえているのは女たちであり、現在のこの社会を支配する男たちは、女が目覚めることをもっとも怖れている。男女同権でシステムに参加してくる女はかまわない。しかし女とは本質においてこの社会の外に立っている存在であり、そういうところから「この社会のシステムを変えよう」と声を上げてこられることを、彼らは怖がっている。だから自民党には女の議員が少ないし、今どきの右翼たちは激しく女および女の論理を攻撃する。

まあ戦前の教育勅語は「女の論理」を圧殺するかたちで成り立っているし、現在の小中学校の道徳教育だってそのコンセプトを踏襲している。

 

 

僕はいつだって自分にはない「女の論理」について考えている。そこにこそ人間性の自然・本質というか真実があると思えるからだ。だれも自分の中に真実があるなどと考えるな。それほどご立派な人間なんか、この世のどこにもいない。

「女の論理」の本質は「処女性」にある。まあほとんどの女はすでに処女ではないのだが、だれもがかつて処女であったし、だれもがどこかしらで処女の心でものを考えている。

処女とは「自分の中に真実はない」と考えている者たちだ。そうやって「もう死んでもいい」という勢いで処女を捨てるのであり、すでに「無邪気な少女」であることすなわち「人としての真実」を喪失していることの「かなしみ」を生きているから捨てることができる。

「処女」は、セックスを「したい」のではない。「やらせてあげてもいい」と思うだけであり、彼女らこそもっとも豊かな「贈り物=ギフト」の心の持ち主なのだ。

処女を捨てることは、「もう死んでもいい」という勢いで男に「贈り物=ギフト」をすることである。とはいえそれは、男を愛しているからというようなことではない。そうせずにいられないようなみずからの命に対する幻滅とかなしみを抱えて存在しているからであり、その幻滅とかなしみは、彼女らほどではないにせよ、だれの中にも宿っている。人は、死ぬまでみずからの命に対する幻滅とかなしみを抱えて生きてゆく。

男であれ大人の女であれ、だれの中にも「処女性」は宿っている。それは、だれの中にも人としての真実を喪失していることの「かなしみ」が宿っている、ということだ。その「喪失感=かなしみ」を共有しながら、人と人はときめき合い助け合ってゆく。

そしてわれわれ民衆は、その「喪失感=かなしみ」ゆえに、かんたんに権力者から支配されてしまう。人間なんて、迷子の子供のような存在だ。どうせいつかは死ぬのだし、死が何かということは永久にわからない。その「わからない」ということを背負って生きている存在なのだし、その「わからない」ということに対する愛着こそが豊かな好奇心を生み、この生を活性化させる。

けっきょく男は、女のことなんか「わからない」から、女に愛着や興味を抱く。女のことだけではない、人の心なんかわからないからこそ、人の心を知りたがり人の心に寄り添おうとする。そうやって社会が活性化してゆく。

「わからない」ということと和解し、それを抱きすくめてゆく……それが人の心だ。わかったようなことをいっても、だれの心の底にもそういう「かなしみ」が宿っている。

男には男の「かなしみ」があるし、女には女の「かなしみ」がある。韓国人には韓国人の「かなしみ」があるし、アメリカ人にはアメリカ人の「かなしみ」がある。

とりわけ「処女」の「かなしみ」こそが、もっとも深く純粋で本質的だ。そこのところで男なんか、どんなバカギャルにもかなわない。彼女らの「かなしみ」は深く純粋で本質的だから、男に「やらせてあげてもいい」と思うことができる。

 

 

憲法第九条の「非武装中立」の議論に関して、「人を殺すくらいなら殺されてもかまわないということなどありえない」などというが、処女が処女を捨てるときはまさしくそういう心の動きであり、それは「ありえる」のだ。「ありえない」といえばなんだが正義・正論のように聞こえるが、そういう思考こそ醜く病んでいるのであり、「処女」のように「こんな命などなくなってもかまわない」と思って何が悪い?それでも世界は輝いているし、他者に生きていてほしいと願ってしまう。そういう心が豊かに生成している社会でなければ活性化しない。

生命賛歌とともに自分の命や国に執着しながら「非武装中立はありえない」と信じているほうが、よほどお花畑なのだ。自分の命も自分の国も滅びてしまっていいのであり、そう思うことによって自分の命も国も活性化する。

非武装中立はありえる」ということを、女は本能的処女的に知っている。そういう女たちが目覚めることを、今どきの右翼や支配者たちは怖れている。女たちの「もう死んでもいい」という勢いを怖れている。

たとえそれがどれほど困難なことであっても、それは「ありえる」のだ。「ありえる」とひとまず認識するのが、人としてのたしなみなのだ。

たとえ現実の社会システムを変更して新しい時代を迎えることがどれほど困難であっても、それは「ありえる」のだ。処女が処女を捨てるように、「もう死んでもいい」と勢いで新しい時代に分け入ってゆくのが人間性の自然・本質なのだから。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

>> 

<span class="deco" style="font-weight:bold;">蛇足の宣伝です</span>

<< 

キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。

処女性の人類学

日刊ゲンダイが「韓国叩きの卑しさ危うさ浅ましさ……」というような見出しの記事を一面トップに載せていたが、ほんとうにそうだと思う。

テレビの「ゴゴスマ」とか、「週刊ポスト」とか、韓国叩きのヘイトスピーチで商売をしようなんて、ほんとに醜く卑しく浅ましい。まあさっそくたくさんの批判の声で炎上してしまい、あいまいな言い訳の謝罪めいた態度を見せていたが、本音としては、視聴率をとれれば売り上げを伸ばせればこっちのものだ、ということだろうか。

民衆よりもマスコミのほうがずっと卑しさ浅ましさの自覚がない。本気で韓国叩きのヘイトスピーチがしたくてうずうずしている記者や編集者やタレントや評論家がいる。しかもそれは、みずからの思想信条というより、権力に守られたいという「保身」の潜在意識からきているのだろう。それが、卑しく浅ましい。

権力に守ってもらおうとするのではなく、民衆のひとりひとりがときめき合い守り合ってゆくということ、これが日本列島の民衆社会の伝統なのだ。つまり、「国家」とか「神」とかの「大きな庇護」ひとつを頼りにするのではなく、ひとりひとりの小さな世界のささやかな「庇護したいという願い」を無数に集めながら世の中を成り立たせてゆくということ、そういう流儀の権力社会とは別の民衆社会独自の歴史の流れがあったわけで、もともとはそのためのよりどころとして天皇制が機能してきたのだ。

 

 

まあ今のところは韓国叩きのヘイトスピーチが商売になる状況があるのかもしれないが、それがそのまま民衆の総意だというわけではない。そんな情報の消費者はせいぜい1割か2割くらいだが、彼らのその積極的な購買欲によって商売を成り立たせているらしい。ほとんどのものは静観・傍観だし、卑しくあさましいと反発している者だって1割か2割はいて、それが日刊ゲンダイの読者になっている。

現在、ヘイトスピーチとそれに対する反発との割合は五分五分なのだろう。ただ、反発のほうが先に仕掛けてゆくことはあり得ないし、ヘイトスピーチの側はとても熱心でヒステリックで声高だから、どうしてもそちらのほうが目立ってしまう。

したがって静観・傍観している者たちもいずれはヘイトスピーチに取り込まれてゆく危険性もあるわけで、その流れに反発する側からの魅力的なリーダーが出てくることが待ち望まれるのだろうが、既存のリベラル野党にそんなスターはいない。

立憲民主党枝野幸男は、2017年の衆議院選挙の後の一時期はスターになれるチャンスはあったのだが、けっきょく女房子供とカラオケに行ってよろこんでいるような善人のマイホームパパでは、華がないし話にならない。そうやって自分の世界を守ることに耽溺している人間では、命がけで民衆を守ろうとする気概が伝わってこない。それはもう、その後の彼の政治活動や言動にあらわれており、今や多くの民衆ががっかりしてしまっている。

いつの時代も、どんな分野でも、どんなかたちであれ、スターというのは「もう死んでもいい」という勢いを持っている。それを「華がある」というわけで、そういうやくざな気質の「無縁者」でなければスター=リーダーにはなれない。たとえ民衆が自分だけの世界を大切にする存在であっても、民衆と同じ人種ではスター=リーダーにはなれない。なれるのはあくまで「もう死んでもいい」という勢いで民衆社会の「生贄」になれる存在であり、「生贄」だからこそ民衆の側も祀り上げようという気になれる。

「生贄」とは「生きられない存在」であり、それを祀り上げてゆくことは、「生きられない弱いもの」を生きさせようとする人として生きものとしての本能に由来している。人間社会において「生贄」は聖なる存在であり、すべてのスター=リーダーはどこかしらにそういうやくざで悲劇的な気配を漂わせている。

お幸せなマイホームパパでは、どんなに清く正しく聡明であろうと、祀り上げようという気にはなれない。そこに、枝野幸男の決定的な限界がある。

というわけで、山本太郎野党共闘のリーダーにしないかぎり、政権交代など起きるはずがない。

 

 

天皇とはこの国の「生贄」であり、この国に天皇制が存在するかぎり、この国ではそのような気配を漂わせている者でなければスター=リーダーにはなれない。

古代以前の奈良盆地で生まれてきた起源としての天皇は、民衆社会の「生贄」として祀り上げられた「処女の巫女」だった。

原始的な社会が「生贄」を祀り上げることは、世界共通の習俗である。といっても原始社会には「神」という概念などなかったのだから、それは「神」に捧げられたのではない。そして「神」に捧げるためには殺して神の世界に送ってやらねばならないわけだが、「神」という概念などなかったのだから、ただもう集団運営のよりどころ(=象徴)として祀り上げ、みんなで庇護し生きさせていただけである。

原始社会が女優位の社会であったことは人類学の常識だが、女の中でももっとも「超越的」な存在は、「妊婦=母親」ではなく「処女=思春期の少女」だった。

原始人は「妊婦=母親」を崇拝していた、などというのは、凡庸な歴史家の勝手な思い込みにすぎない。縄文土偶は妊婦をかたどっている、とよくいわれるが、べつに乳房や腹が大きく膨らんでいるものなどほとんどない。ずんぐりした体形のものが多いのは、芸術的なセンスとしてのたんなるデフォルメだろう。それは女であることのなやましさやくるおしさを芸術的抽象的に表現したものであって、べつに妊婦をかたどっているのではない。

狩りをする男であれ子を産む女であれ、現実世界の「生産者」であるが、「処女=思春期の少女」は現実世界の外の存在であり、その浮世離れした存在感のなさにこそ人はもっとも「崇高=超越的」な輝きを見る。それは、生き延びるためにどんなに大切な衣食住のものより、まったく無用の金やダイヤモンドの輝きにより大きな価値を与えているのと同じで、人間とはそういう心の動きをする存在なのだ。つまり原始社会は、生き延びようとする欲望ではなく、「もう死んでもいい」という勢いでいとなまれていた、ということだ。

現代人にとって「大人になる」ということは「これから人生がはじまる」ということだろうが、30数年しか生きられなかったネアンデルタール人縄文人にとってそれは、「もうすぐ死ぬ」と覚悟することだった。まあ現代においても、少年少女の時代が人生の花だ、という思いは残っている。

原始社会の人々は処女の「不思議=超越的」な気配にあこがれていて、そこから女権社会になっていった。その社会は、「生き延びる」ことを目的にいとなまれていたのではない。なぜなら命のはたらきは「もう死んでもいい」という勢いとともに活性化するのであり、そういう勢いをもっとも深くラディカルにそなえているのは、けっして強く正しいものではなく、女でありとりわけ処女だからだ。

人は本能的に「処女」にあこがれているし、男であれ女であれ、だれの中にも「処女性」が宿っている。言い換えれば、処女のようなその勢いを持たなければ強いものにも正しいものにもなれない。

人間性とは「処女性」の別名にほかならない。

だから古代以前の奈良盆地の人々は、天皇の前身としての「処女の巫女」を祀り上げていた。

 

 

山本太郎人気の源泉は、「処女性」にある。山本太郎自身も支持者たちも、それぞれの内なる「処女性」を共有しながら盛り上がっている。みんなで他愛なくときめき合い助け合って生きてゆこうということ、それは、とても日本的であると同時に、人類普遍の盛り上がり方でもある。その政策が正しいかどうかということなど問うてもしょうがない。ただもう処女のように純粋でひたむきな山本太郎は人としてとても魅力的であり、そんな彼を中心あるいは先頭にしてみんなで盛り上がってゆこうとしている。

この国の天皇の本質は「処女性」にある。そのことをいちばんよく知っているのは、もしかしたら山本太郎かもしれない。国会議員になりたてのころの彼は、天皇に直訴状のような手紙を差し出した。それは、国会議員の慣習としては禁じ手であり、議員を含めた多くの右翼たちから「不敬だ」と大バッシングを浴び、一時は命の危険にまでさらされた。しかしそれを救ったのはじつは天皇であり、「彼を責めないでほしい」と国民に呼びかけたことによって、右翼からの脅迫行動も沈静化していった。

だから山本太郎天皇にとても感謝しているし、そのとき「政治家であるかぎり、命の危険にさらされても引くべきではない」ということを学んだ。そしてそういう覚悟をもっともラディカルにそなえているのは、「処女」である。

あのときの平成天皇はすでに退位しているが、もしも山本太郎が総理大臣になったら、今までのどの総理大臣よりも天皇との良好な関係を結ぶことができるにちがいない。今のところ彼は、天皇問題についてほとんど発言していないが、無策だということではない。とりあえず経済問題を最優先にして取り組まねばならないと考えているだけだろう。

外交においても、彼が無能であるということなどありえない。他国との友好関係を結ぶことにおいて、現在の総理大臣よりもはるかに有能に違いない。それは、何をどうするかということ以前に人格=人間力の問題なのだ。すべての政策は大臣・議員・官僚・有識者を含めた「チーム」でなされるのであり、リーダーに求められるのは人格=人間力なのだ。

現在は総理大臣が人格破綻者だから、国民までそのようになってしまっている。国家であれ会社であれスポーツチームであれ家族であれ、人間の集団の性格は、リーダーの人格に大きく左右されてしまう。

 

 

現在のこの国の権力社会は、政治の場であれ経済の場であれ教育の場であれ、日本人ともいえないような日本人が集まって運営されている。そうやって外交政策や企業の海外進出等で失敗ばかり繰り返している。

そして現在の世界もまた、社会全体のシステムを変更しないことにはどうにもならない段階に差し掛かっているのだが、そのためにはまず、人間が人間らしく日本人が日本人らしくあることを取り戻さねばならないわけで、それは、外国であれこの国であれ、「処女性」を取り戻す、ということにある。

政治や経済の世界が山本太郎のような純粋でひたむきな「処女性」をそなえた者によってリードされないことには変わるはずがないし、それは、民衆がほんらいそなえているみずからの「処女性」に目覚めるということでもある。

山本太郎とれいわ新選組の登場によって、女たちが目覚めつつある。全体がそうならなくてもよい。女たちが目覚めれば世の中は変わってゆく。

今どきの右翼権力者たちは、女を目覚めさせないために、あるときは家に閉じ込めようとしたり、またあるときは既存の政治経済活動の枠に取り込もうとしたりしているが、女が目覚めるとは、そのどちらでもなく、それらの既存の社会システムの外の、処女のような「無縁者」になることだ。人類は普遍的に、そういう異次元的な気配を色濃く持った存在にあこがれ祀り上げてきたのだし、そのあこがれこそが人類史の進化発展をもたらした。

人は、異次元的なものにあこがれ祀り上げてゆく。だから現実の暮らしになんの役にも立たないきらきら光る貝殻や石粒が貨幣になっていったのだし、子を産む能力もないがその表情やしぐさがきらきら輝いている「処女」が祀り上げられていった。

人類の世界においては、生きるのになんの役にも立たないものこそ、生きるのにもっとも大切で価値がある存在なのだ。なぜなら「もう死んでもいい」という勢いこそもっとも命のはたらきを活性化させるからであり、そのためのよりどころとなる対象が祀り上げられていったわけで、そもそも「祀り上げる」ということ自体が「もう死んでもいい」という勢いの心の動きなのだ。

すなわち「祝福する」ということ、そして「祝福する」心とともに、人は「贈与=ギフト」をする。それは、「もう死んでもいい」という勢いでなされる。

人類が最初に祀り上げていった対象は、「祝福」し「贈与=ギフト」をしたくなる対象だったのであって、自分を守ってくれる「強く正しいもの」だったのではない。その社会は、「守られたい」という欲望によってではなく、「守りたい」という「祝福=贈与=ギフト」の衝動の上に成り立っていた。

原始人には「守ってほしい」という欲望などなかった。なぜなら誰もがすでに他者から守られている存在だったのであり、そういう「もう死んでもいい」という勢いの他者を「守りたい」という衝動が豊かに生成している集団でなければ、「弱い猿」である人類が生き残るすべはなかったし、その勢いとともに進化発展してきた。

現在のこの国のように誰もが「守られたい」という欲望でうずくまっているだけの社会が進化発展するはずがないではないか。そもそも政府が、アメリカに守られたいという欲望でうずくまってしまっている。

 

 

人類史において最初に祀り上げられた対象は、強く正しい支配統治者だったのではない。「もう死んでもいい」という勢いを豊かにそなえた、集団の「生贄」のような存在だったわけで、そういう存在をみんなして生きさせることが集団の活力になった。まあ子供であれ病人であれ老人であれ障害者であれ、そういう存在をみんなして祝福し祀り上げ生きさせていったのだ。

山本太郎ほど深くひたむきに「生きられない弱いものを生きさせたい」という願いを抱いている政治家はいないし、多くの女たちがそこに賛同していった。彼女らは、そうやってみずからの中に宿る「処女性」に目覚め、この歪んだ社会に捧げられた「生贄」である山本太郎を生きさせようとしていった。

神が存在しなかった時代の「生贄」は、みんなして生きさせようとする対象だったのであり、根源的には、すべての「生きられない弱いもの」はこの世の「生贄」であり、この世のもっとも崇高な存在なのだ。

また、崇高な存在でなければ神への捧げものにならない。たとえ罪人であっても、すっかり「みそぎ」を果たさせて神に捧げたし、「死ぬ」ということ自体がひとつの「みそぎ」だともいえる。

人類史における「生贄」の本質は、人の心に宿る「もう死んでもいい」という勢いの形見であることにある。

「処女」とは、「もう死んでもいい」という勢いをもっともラディカルにそなえている存在である。彼女らは、世界や他者の輝きに他愛なくときめき祝福してゆく。「箸が転げても可笑(おか)しい」年ごろなのだ。それは、かんたんに心が「異次元の世界」に超出していってしまうということであり、その「他愛なさ」の中にこそ、人類普遍の「もう死んでもいい」という勢いや「生きられない弱いものを生きさせたい」という願いが宿っている。

そしてその「他愛なさ」にこそ、彼女らの表情やしぐさや姿を美しく輝かせている。

原初の奈良盆地の巫女の踊りなんか、とくに技巧的なものでもなかったに違いない。ただ動くだけといってもいいくらいのものだったのかもしれないが、だからこそ、見るものには、処女のしぐさや姿の美しさが際立って感じられた。現在の芸能・芸術としての舞踊なら技術がとても大きな要素になるが、原初の舞においては、存在(=姿)そのものの美しさが生に出る。現在のディスコダンスなどにおいても、若い娘が踊れば、たとえ下手くそでも、その下手さそのものの姿に、「生きられなさ」という悲劇的な気配が宿り、それなりの愛らしさや美しさを漂わせている。おばさんが下手くそであるのとはわけが違う。

 

 

根源的には、「生きられなさ」こそ、この世のもっとも崇高な姿である。したがってこの国で天皇が祀り上げられてきたことに人類としての普遍性があるとするなら、起源としての天皇は「強く正しい支配統治者」ではなく、その「生きられなさ=悲劇性=崇高さ」の気配によって人々に感動をもたらす存在であったと推察するほかない。

古代以前の奈良盆地の人々は、みんなして「生贄の処女=巫女」を祀り上げ生きさせ、それによって集団が活性化していった。

神が存在しなかった原始社会においては、みんなして「生贄」を生きさせていたのだ。

原初の人類の集団は、サル山のボス制度のように「強く正しいもの」が支配統治するのではなく、みんなして「美しく悲劇的な気配をまとった処女」を集団運営の「よりどころ=象徴=生贄」として祀り上げていった。それが人類普遍の集団性であり、だから文明社会の歴史がサル山のボス制度のような王権支配としてはじまったのであっても、けっきょく現在にいたって「民主主義」が模索されるようになってきている。原初の人類集団のかたちは、究極の未来の集団のかたちでもある。人間の集団は、そのようなかたちでしか活性化しないようになっている。

天皇の起源について考えるのなら、人は根源・本質において何を祀り上げるかということを問うてみなければならない。

われわれは、たまたまこの世に生まれ出てきただけのことで、この命に何の値打ちもない。だが、それでも世界は美しく輝いており、その輝きが自分を生かしているのだし、他者に「生きていてくれ」と願いもする。

人は世界の輝きによって生かされている。だから、美しく輝く対象は祀り上げずにいられない。それが、起源であると同時に究極でもある人の生態なのだ。天皇制はそういう人としての根源的本質的な生態の上に成り立っているから1500年以上続いてきたのだろう。

世界の輝きを祝福することが天皇制なのだ。したがってヘイトスピーチほど天皇制にそぐわないものはない。それがいかに醜いことであるかということが、どうしてわからないのだろう?狂っているとしか言いようがない。まったか、いやな世の中だ。

とはいえ、人が人の心を持っているかぎり、それでも世界は輝いているのだし、その輝きを祝福しようとする動きがこの世から消えてなくなることはない。

難しい話じゃない。たとえあなたが韓国が嫌いであっても、キムチを食えば美味いと思うだろう。それだけのことさ。「ときめき」がなければ人は生きられない。「憎しみ」だけで生きられるほど、生きるのはかんたんなことではない。

「ときめき」とは、「もう死んでもいい」という勢いで心が「異次元=非日常」の世界に超出してゆくこと。「生き延びたい」という欲望だけで生きられるほど、この生は幸せな事態ではない。

この生には「生きられなさ」という不幸が宿っており、それによってこそこの生が活性化する。それを、ここでは「処女性」と呼んでいる。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

>> 

<span class="deco" style="font-weight:bold;">蛇足の宣伝です</span>

<< 

キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。

女子大生だって、やがてOLになる

たしかに現在のこの国の政府とマスコミや民衆の世論まで巻き込んだ韓国叩きというのは醜悪そのものなのだが、もともと扇動に流されやすいおっちょこちょいのナイーブな国民性なのだから仕方がない。政権が代われば、民意だってあんがいかんたんに変わってくる。

もともと四方を荒海に囲まれた島国で歴史を歩んできたのだから、異民族に対する直接的な関係意識は薄い。たとえ嫌いであっても、離れ離れであるならべつにかまわない。日常的に付き合うのなら耐えられないし憎しみもどんどん膨らんでくるのだが、日本人にとって異民族はそういう相手ではない。そこのところが、国と国が地続きになっている大陸諸国とは少し違う。韓国が嫌いといっても、それほど根の深い感情でもない。それに、日本人どうしだって憎しみあわないために「水に流す」という文化を育ててきたのだし、そもそも「憎む」ということを突き詰めることが苦手な民族なのだ。

韓国人の日本に対する憎しみがどの程度のどのようなものかということなどわれわれにはよくわからないし、現在の韓国叩きなんか、それほど本格的な憎しみも伴わないまま、政府のプロパガンダに煽られながら尻軽にぎゃあぎゃあわめいているだけのこと。とはいえそれはきっと危険なことなのだろうが、思想の違う政権と交代して鎮めるようなプロパガンダをすればあっさり鎮まってゆく。

良くも悪くも、おっちょこちょいの民族なのだ。だからまあ、正しいことよりも面白いことに飛びついたりもするわけで、現政権がどんなに強力だろうと、とても魅力的なリーダーが反対側から登場してくれば、一気にそちらのほうに動いてゆくということも起こりうる。

山本太郎は、華があって誠実でひたむきで、現在これほど魅力的な政治家はいないし、まったく新しいタイプのリーダーである。無邪気でおっちょこちょいなのだけれど、誠実でひたむきで、しかも聡明な思考と豊かなアイデアもそなえている。そうして、今回の参議院選挙で自分を犠牲にして重度の障碍者二人を国会に送り込んだことにより、だれよりも「生きられない弱いものを生きさせたい」という願いを熱くひたむきに抱いていることを見せた。

 

 

山本太郎には、たくさんのOLのファンがいるらしい。彼女らはまあ、とくに政治に関心があるわけでもなく、ふだんは政治家の街宣や政治的なデモや集会などには参加しない。それがどうして、会社帰りなどに山本太郎の街宣と出会うと思わず足を止めてしまうのか。

彼女らは、女子大生とは違う世界を生きている。キャンパスライフののどかな気分で会社勤めなどできるはずもない。半分以上は非正規の不安定な身分だし、そうでなくてもひとまずこの社会の現実の風にさらされている。そして恋をするにしても、よほどの大きな企業でないかぎり、たくさんの同世代の男たちと出会える環境ではない。極端な言い方をすれば、恋をするくらいしか楽しみがないし、結婚のことも考えるようになっている。そんな状況で、女子大生のころよりもはるかに、世の男たちやサラリーマンに対する幻滅を体験させられている。たとえ大好きな恋人がいたとしても、そのまわりには社会のシステムに飼い慣らされてすでに輝きを失ってしまったたくさんの男たちがいる。世の中とはこんなものかと思えば、働く気も萎えてくる。

この生を活性化させるのは、物質的な豊かさでよりも、この世界や他者が輝いていると感じることができるかどうかということのほうが大きい。

たとえさしあたって生活に困っていなくても、現在の多くの女たちがこの社会や男たちに幻滅している。いや、うんざりしている、というべきだろうか。どんなに物質的に豊かであっても、それがいい社会だといえるだろうか。

そんな彼女らの前に、大人になってもなおみずみずしいひたむきさと輝きを持った山本太郎が登場した。

山本太郎がOLに人気があるということは、現在の社会の大人たちが若者たちからいかに深く幻滅されているかということのあらわれであり、彼らの意識が後ろ向きで選挙に行きたがらないのも、自分がどんな大人になれるかという希望やビジョンが持てないために、けっきょく「今ここで漂っていられたらそれでよい」という気分になってしまうのだろう。

ひどい世の中だと思うからこそ、このままでよい、と思ってしまう。そしてその責任は、総理大臣をはじめとする現在の権力者たちだけでなく、すべての大人たちにある。

それにしても、この国の現在の政治家たちの、そろいもそろってなんとブサイクなことか。国会中継なんか、エンターテインメントとして何の値打ちもないどころか、げんなりするばかりで、だれがわざわざそれを見ようとするものか。贅沢すぎる望みかもしれないが、やはり魅力的な大人をウオッチできる場でなければ、その気になれない。

魅力的な政治家が登場してこなければ、投票率は上がらないし、現在のこの国は投票率が上がれば野党が確実に勝つわけで、べつに右傾化しているのではない。右翼ばかりが騒々しく元気だというだけのこと。民衆が後ろ向きになって、新しい時代に対する希望を見失っている。大人たちがみなブサイクなのだもの、若者たちが「大人になりたい」という希望なんか持てるはずがない。

しかしそんな時代状況だからこそ、山本太郎とれいわ新選組に対する支持はますます増えてゆくに違いない。なんといってもこの国の伝統も人類史の伝統も、みんなでときめき合い助け合って生きてゆこうとする願いとともにあるのだから。

 

 

みんなでときめき合い助け合って生きてゆくということ、そして生きられない弱いものを生きさせようとする願いを持つこと……それが日本列島の伝統であり、人類普遍の根源的な願いでもある。われわれの歴史の無意識に息づくこの心を、われわれは山本太郎とれいわ新選組によって呼び覚まされたのだ。

だから山本太郎は今どきのOLに人気があるわけで、女たちが立ち上がらなければこの国は変わらない。

今どきのOLや(OL時代に結婚した)主婦たちは、現在のこの国の社会制度に飼い慣らされた男たちやサラリーマンに対する幻滅をもっとも深く抱いている者たちである。こんな世の中だもの、女も大人になれば、男に対する幻滅からは逃れられない。しかし幻滅は、女がもっとも深いところで抱いている男に対する愛でもある。

とすれば、今どきの女子大生には、男に対する幻想がまだ残っていることになる。幻滅していないレベルでは、まだまだ愛が薄いのだ。学生どうしの関係で日々の暮らしが完結している彼女らは、まだ大人の男たちのみすぼらしさを知らない。彼女らが選挙に行かないのは男のことも世の中のこともよく知らないからであり、男子の学生たちも、まあ似たようなものかもしれない。したがって彼ら彼女らが「このままでいい」とか「自民党でいい」とかといっていても、10年先20年先も同じだとは限らない。いずれ世間の風に晒されて幻滅を深くしてゆけば、そういうわけにもいかなくなる。

大人たちに幻滅しているOLや主婦たちが山本太郎とれいわ新選組のような大人たちと出会って「こんな大人たちもいるのか」と感動すれば、投票行動を起こし、世の中も変わってくる。

ともあれ人が人であるかぎり、山本太郎とれいわ新選組のような純粋でひたむきな大人たちは、いつの時代にも必ずどこかにいる。もともと人間とはそういう生きものなのだもの、だから進化発展してきたわけで、そういう大人たちがリードすれば、きっと新しい時代が開かれてくる。

「とりあえずこのままでいい」と思いながら、この世界は衰退し壊れてゆく。それはもう、栄枯盛衰を繰り返してきた文明社会の歴史の法則かもしれない。

 

 

今どきの若者たちが「とりあえずこのままでいい」と思うのは、いい世の中だからではない。それはただの思考停止であり、いい人ぶった大人たちから大人たちに幻滅したらいけないように育てられたからであり、「このままでいいはずがない」と思って新しいオルタナティブな答えを探すような思考訓練をしてこなかっただけのこと。

現代社会はすべてのことに答えが用意されてあり、あらかじめ用意された以外の答えには興味を持たないように教育される。なぜならそれが、もっとも社会システムにフィットしている人間だからだ。そのように育てられた彼らは、「幻滅する」とか「疑う」ということを知らない。

それでもしかし、世の中に出れば多くの者たちがいやおうなく幻滅や疑問を体験させられる。いつまでも「とりあえずこのままでいい」とも思っていられるほど世の中は甘くない。とくに女たちは幻滅という心の動きなしに生きられる生きものではないのだし、幻滅や疑問のないところにオルタナティブイノベーションは生まれてこない。

幻滅することと憎むこととは違う。この社会や自分が生きてあることに幻滅したり疑問を持ったりすればもう、まわりの他者意外に信じられるものなんかなくなる。そうやって人恋しくならずにいられなくなるのだ。

幻滅とは、愛の別名なのだ。

ハンバーガーショップの女子高生たちは同級生の男子の悪口で盛り上がっているし、それによって男子に対する親密な感慨をあたため合っている。つまりそれは、男に対する愛の芽生えでもある。

しかし女子大生になると、しだいに怠惰な感性になってくる。女どうしの関係にライバル意識が強くなってくるから、おたがいにけん制し合って無邪気に盛り上がることができなくなるのだろうか。まあ、女子大生だってさまざまだろうが、自分の人生に対する執着が出てくると、世界や他者に対して「反応」する感受性が鈍くなってくる。就活の面接なんか出たとこ勝負でやればいいだけなのに、むやみにマニュアル本にすがったりする。女子高生に比べると、社会制度が高度に発達した今どきの女子大生は生きることに対する「ライブ感覚」が希薄なっている場合が多い。そうやって社会制度におびえながら取り込まれながら、「自民党でいい」と思ったり、選挙にまったく関心がなくなったりしてゆく。

 

 

女子高生であることを卒業した女子大生が何を失ったかというと、それはおそらく「処女性」なのだ。

「処女性」はすべての女の中に宿っているし、根源的な人間性そのものとして男も含めただれの中にも宿っているものでもある。

処女とは、「非処女」という「新しい世界」に飛び込んでゆくことができる存在である。そういう「潔さ」が「新しい時代=社会」を切りひらく。それに対して多くの女子大生が選挙に行きたがらなかったり自民党に投票してしまったりするのは、自分の現在に対しても将来に対しても、「変わる」ことを嫌がっているからだろう。処女を捨てることができない処女なんか、処女じゃない。処女が処女を捨てることができなかったら、人類の歴史なんか成り立たない。彼女らは、この生に対してもこの世界に対しても、「幻滅」がなさすぎる。

「幻滅」こそ「処女性」であり、「愛」の源泉であり、その「潔さ」によって他者との関係が結ばれ、新しい時代が切りひらかれてゆく。つまり「処女性」とは、この世界や他者に対する豊かな「反応」のことであり、それが女子高生やOLや主婦にはあって、女子大生にはない。彼女らにこの社会の不条理を説いてもほとんど反応がない、と今どきの大学教授がいっている。

しかし彼女らだって、そのままではいられない。卒業してOLになれば、世間や男対する感じ方はもっと切実になる。学生時代の人間関係なんかわりと楽にリセットボタンを押すことができても、世間に出ればそうもいかなくなる。

女は、男よりもずっと深く豊かに世界や他者にときめくことができる存在であると同時に、ずっと深くラディカルに幻滅している存在でもある。女子大生は自分の世界に執着し、OLや主婦たちは、自分の外の世界や他者に幻滅しつつときめいてもいる。

というわけで、20代の若者の多くが自民党支持だといっても、彼らの10年後20年後も同じだとは限らない。

 

 

男や社会に幻滅したOLや主婦は、毎日の同じような繰り返しを大切にして生きながら、それでも「このままでいいはずがない」と「新しい時代」を夢見ている。

保守主義とは、今ここにとどまろうとすることではなく、新しい時代を夢見ることなのだ。

「習慣」とか「習俗」とか「伝統」などということを大切にするのが保守だとしても、それは、今ここを守るためではない。それがなぜ繰り返されているかといえば、新しい時代を夢見ているからであり、新しい時代を夢見続けることが「習慣」とか「習俗」とか「伝統」になっている。

たとえば、村で毎月の寄り合い会議をするのは、問題を解決して新しい時代を切りひらいてゆくためであって、「このままでいい」ならそんなことをする必要もない。なんの理由もなく続けられている習慣や習俗や伝統などないし、昔に帰るためでもない。習慣や習俗の「習」は「練習」の「習」である。伝統文化だって、続けられていれば、どんどん高度に洗練されてゆく。

保守とは探求であり、いわば荒野に分け入ってゆくようなことでもある。「温故知新」という言葉もあるくらいで、それが保守であり伝統である。

保守主義者こそ開拓者(フロンティア)なのだ。新しい時代は、女という保守主義者たちによって切りひらかれてゆく。そんな、社会のステムや男たちに幻滅した女たちが今、山本太郎とれいわ新選組に関心を寄せつつある。彼女たちが立ち上がれば、時代はきっと新しい局面に入ってゆく。

れいわ新選組の安富歩は、「子供を守る」ということを政治原理にしよう、と訴えたが、すなわちすべての女たちの中に宿る「生きられない弱いものを生きさせようとする人間性の自然であり生きものとしての本能でもある衝動」が呼び覚まされて広がってゆけば、きっと新しい時代がやってくるに違いない。もちろん現在のこの腐りきった時代状況においてそんなことが起きるのはほとんど奇跡のようなことだが、ほんの一ミリでも風穴を空けることができれば、希望は持てる。そこから数十年数百年かけて変わってゆけばいいわけで。

れいわ新選組のムーブメントは本質的だからこそ、国家だの正義だのと叫びたがる既成の政治勢力の右翼からも左翼からも攻撃されねばならない。

現在の世界は狂っている。素直に人間らしくあろうとすると、まわりから排除されたり無視されたりしなければならない。人間らしくないことが人間らしいことだと信じられている世の中だから。

人々の思考があまりにいびつになって、人間らしさとは何か、と問いなおさねばならない時代になっている。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

>> 

<span class="deco" style="font-weight:bold;">蛇足の宣伝です</span>

<< 

キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。

夢見る心

 

政府やマスコミの扇動に乗せられて、韓国がどうとかこうとか許せないとか、何をいきがって大騒ぎしているのだろう。

ただのド素人の民衆のくせに、まるで国を背負っているかのような物言いをする。

政府のやることの醜悪さはもちろんのこと、その尻馬に乗って批評・批判精神を失っているマスコミも情けないが、扇動されていい気になっている民衆だって狂っているとしか言いようがない。

そんなふうに正義ぶって相手をけなすことが、そんなに楽しいか。ただのうっぷん晴らしじゃないか。

日本人は、かんたんに世の中の空気に流されてしまう。その無邪気さは必ずしも悪いことばかりではないだろうが、憎しみの連鎖というのはひとつの病理現象にちがいない。もともと外部=異民族との交渉のない島国だから、そういう自家中毒を起こさないための集団性の伝統がある。それが「喧嘩両成敗」とか「水に流す」という習俗であり、この国の伝統においては喧嘩をすれば正義の側だって罰せられたのだ。そうやってすべてを水に流そうとしてきた。

強いものが正義の側に立って怒ったって、誰も拍手をしない。弱い側が堪忍袋の緒が切れ立ち上がったときに拍手をする。それが「判官びいき」であり「忠臣蔵」であり「百姓一揆」であり「ええじゃないか」であり「米騒動」であり、そのときはもう正義も悪もない。そうやってあの時は「アメリカと戦争をしよう」という世論が盛り上がってしまった。

韓国叩きをするくらいなら「アメリカと戦争をしよう」といえ、という話である。ネトウヨというのは、ほんとに考えることがブサイクだ。権力=正義の側に立って自意識を満足させようなんて、意地汚いにもほどがある。それは、まともな日本人のすることではない。そんな見苦しい態度を共有して何がうれしいのか。むやみな韓国叩きなどしないのが敗戦国としてのたしなみであり、プライドというか潔さというものだし、それが日本文化の伝統だろう。

戦争に負けたのだから、国を背負っている者たちは腹を切るしかないのであり、正義の戦争だろうと悪の戦争だろうと関係ない。たとえ民衆だろうと、国を背負って何かをいいたいのなら、敗者としてのたしなみと潔さを持つのが日本人というものだろう。

僕は、今回の日韓問題でどちらがいいか悪いかということなどわからない。ただ、正義ぶって偉そうなことをいうその態度の醜悪さに我慢がならないのだ。

 

 

今やヘイトスピーチが花盛りであるかのような状況だけれど、そういう政府だからそれに追随する者たちの声が前面に出ているというだけのことで、ほとんどの日本人がそうなっているというわけでもないし、もしも政権が代わればここまでのことにはならない。

民主党が政権を取ったときは、ヘイトスピーチが好きな右翼的な議員もたくさんいて、鮮明な党の立ち位置というか思想を示すことができなかった。彼らの政権は、「リベラル」だったから崩壊したのではなく、リベラルに徹しきれなかったから崩壊したのであり、徹してくれれば民衆は支持したにちがいない。なぜならこの国の民衆社会の伝統は、「リベラル」という以上に、ほとんど「アナーキズム」に近いのだから。正義も悪もナショナリズムもどうでもよいという天皇アナーキズム、すなわちただもう人と人が他愛なくときめき合い助け合う社会であればそれでいいと思えるなら、ヘイトスピーチばかりの社会になどなりようがない。

右翼ナショナリズムほど天皇制の本質にそぐわないものはないし、右翼ナショナリズム天皇を支配し利用することの上に成り立っている、

なんのかのといっても現在の自民党政権はゴリゴリの右翼ナショナリズムという立ち位置を鮮明にしているから一部の民衆が引きずられてしまうし、ヘイトスピーチをしてもいい状況がつくられている。

権力者の扇動に流されやすい国民なのだ。

しかしだからこそ山本太郎とれいわ新選組くらいにすっきりとした姿を示して政権交代することができれば、とうぜん世の中の空気も変わってくる。また、それくらいの勢いがなければ、もはや政権交代することはできない。

したがって、今の立憲民主党や国民民主党野党共闘をリードしているかぎり、政権交代なんて夢のまた夢にちがいない。

この国の市民=民衆には、自分の思想などというものはない。だから権力に流されてしまうわけだが、民主主義といってもこの国の市民=民衆が望んでいるのは、とうぜん自分の思想を実現することではなく、市民=民衆を魅了する「無縁者」が持っている異次元的な思想なのだ。

天皇が天上界的な存在だということは、天皇こそこの世のもっとも本質的な「無縁者」にほかならないのであり、人の心は根源において「異次元の世界」を夢見ているし、その夢見る心で人類の歴史は進化発展してきた。天皇制とは、じつはそういう「夢見る心で人間らしく生きてゆこうよ」という問題であり、「今だけ金だけ自分だけ」という通俗極まりないあのヘイトスピーチが大好きな右翼政権とは真逆のものだし、山本太郎とれいわ新選組はまさに「夢見る心で人間らしく生きてゆこうよ」というコンセプトの主張をしている。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

>> 

<span class="deco" style="font-weight:bold;">蛇足の宣伝です</span>

<< 

キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。

人は美しいものに感動する

人が美しいものに感動するのはあたりまえのことで、それこそがこの世の無上のものだろう。なのに明治以来の大日本帝国や古代の大和朝廷は、天皇をサル山のボスに仕立て上げた。それによって民衆の支配は強化されたわけだが、僕が知りたいのは、それ以前のあくまで美しい存在としての天皇像なのだ。

令和という新しい時代になり、天皇とは何者か?ということを改めて問い直してみたいと考えている。

元号が代わっただけのことだが、それでも人々の中には、新しい時代を待ち望む心が芽生えてきているのではないだろうか。

僕は自分が天皇のことをどう思っているのかということはよくわからないし、興味もない。知りたいのは、日本人が歴史の無意識として共有している天皇の姿とは何か、ということであり、まあおぼろげに目星はついている。

元号が代わって人々の心があんなにも華やいだということは、日本列島の伝統としての新しもの好きの心は天皇の存在によって担保されている、ということを意味する。新しもの好きの心、すなわち進取の気性、進取の気性とは、新しいものを祝福する心である。

人は、祝福する心の形見として、贈り物をする。

天皇は「贈与=ギフト」の人である。

だから民衆も、一方的な無償の「贈与=ギフト」として天皇を庇護し祀り上げてゆく。

もともと日本列島の民衆は、「天皇はかくあらねばならない」というような議論などしてこなかった。天皇天皇であればそれでよい、これが基本だ。「万世一系」だとか「男系男子」であらねばならないとか、そんなくそ厚かましいこだわりは権力社会の中だけの話で、われわれ民衆はもう、無条件で天皇を祀り上げている。天皇は「天皇である」というそれだけでこの上なく尊い存在なのだ。天皇家のことにいちいち口をはさむなんて、はなはだ不純・不敬であり、天皇を支配し利用したい連中がそんなことにこだわっているだけだろう。天皇をそういう連中の支配下に閉じ込めてしまってはいけない。彼らの汚れた手から天皇を救出しなければならない。

天皇家のことは天皇家で決めてくれればいい、それこそがほんとうの意味での「万世一系」だともいえる。権力社会がいちいち干渉してゆくことによって、天皇家の血筋も伝統文化も壊されてゆく。

国家の存続のために天皇が存在するのではない。天皇は、国家(=大和朝廷)成立以前の奈良盆地ですでに存在していたのであり、国家を持たない歴史段階の都市集落におけるシンボル的存在としてみんなから祀り上げられながら生まれてきたのだ。

まあ世界中どこでも国家の成立以前はそのようなシンボル的存在が祀り上げられていたのであり、そういう意味で天皇は、「日本的」というよりも、「原始的」であると同時に「普遍的世界的」な存在でもあるといえる。

天皇は、その本質において「国家護持」のために存在しているのではない。民衆社会のときめき合い助け合う関係のよりどころとして生まれてきたのであり、今でもそれは民衆の歴史の無意識として引き継がれている。

 

 

今どきの歴史家たちに問いたい。

あなたたちは原始社会がどのようにいとなまれていたのかということを、人間性の自然・本質に沿ってちゃんと考えているのか。アニミズム=呪術に支配された社会だったとか、階級社会だったとか、そんなことは国家制度とともに起きてきたことであり、現代社会がいかに呪術的で階級差別的であるかということを考えれば、それを原始社会にも当てはめることなんかできるはずがない。呪術や階級差別がどんどん高度で複雑になってきたのが、文明社会の歴史なのだ。国家制度がはじまった古代社会は呪術性や階級制が強かったのではなく、プリミティブで単純だっただけであり、現代社会のほうがずっとそうした観念が高度に複雑に発達している。

原始社会には、陰謀論も都市伝説もカルト宗教もなかった。人間の集団がどのようにすればスムーズに活性化するかといえば、みんなでときめき合い助け合うこと以上に有効な方策など何もない。それだけのこと。世界中のどこの地域でも過酷な条件下で生きていた原始人は、みんなで助け合う以外に生き延びるすべはなかったのであり、彼らはそのことを追求しながら歴史を歩んでいたに決まっている。

みんなで助け合う社会になるためにはどんなリーダーが必要かといえば、サル社会のような強いボス(=支配者)ではなく、オオカミの群れのようなみんなから慕われ選ばれる存在であらねばならない。それによってみんなの心が通じ合い、ときめき合い助け合う関係が生まれてくる。

原始社会は、ひとりの強いリーダーによって守ってもらえるような生易しい環境ではなく、みんなで助け合わねば生きられなかった。

氷河期が明けて一か所にたくさんの人々が定住するようになり、農業などが発達して余剰のものを生産できるようになると、それを収奪し合う争いが内部で起きてくるし、集団どうしが戦争をするようにもなってくる。これが文明国家の発生であり、そうなってはじめて集団を統制する強いボスが必要になった。

文明国家の発生までの人類700万年の歴史の99・9パーセントの期間は、ときめき合い助け合わないと生きられなかったし、そういう関係を進化発展させたことによって、猿のレベルを大きく超えていったのだ。

もともと人類は「猿よりも弱い猿」だった。二本の足で立ってふらふらうろつきまわっている猿が、強いはずがないではないか。だからアフリカのジャングルという住処を追われ、地球の隅々まで拡散していったのだが、しかしそれによって「ときめき合い助け合う」とか「生きられない弱いものを生きさせる」という関係の集団性は飛躍的に発展していったわけで、それこそが人が人であることのアイデンティティというか存在証明なのだ。

 

 

今どきの歴史家は、人類700万年の歴史のわずか0・1パーセントにすぎない文明社会の歴史の尺度で人間の本性を測ってしまっている。

だから、原始時代にも呪術や階級があった、というような決めつけをする。人類の歴史はあるとき呪術や階級が生まれてくるような「状況」に置かれたのであって、ほおっておいても自然にそれが生まれてくるような人間性を持っているのではない。

人間性とは何か?

凡庸な政治学者や社会学者が、れいわ新選組はただの左派ポピュリズムであり、そのブームも一過性のものとしてすぐにしぼんでしまうだろう、というとき、その現象が深く人間の本性にかかわっているということに気づいていないし、無意識のところで気づいているから怖がってヒステリックに攻撃したり蔑んだりする。

しかしれいわ新選組はまさに、人間性の自然・本質としての「生きられない弱いものを生きさせる」とか「ときめき合い助け合う」という関係の集団性に訴えてブームを起こしているのであり、状況しだいではさらに盛り上がってゆく可能性もなくはない。

これは、人類の歴史の無意識の問題であり、同時に日本人の歴史の無意識としての天皇制の本質の問題でもある。

起源としての天皇制は、人々がときめき合い助け合う社会をいとなむためのよりどころとして生まれてきたわけで、今どきの歴史家が、そうではなく「支配者として登場してきた」という問題設定に終始しているのも、けっきょく原始社会にもアニミズムや階級があったという先入観にとらわれているからだろう。

天皇によって支配統制される社会なんか、この国の伝統でもなんでもない。天皇はほんらい、支配統制する存在ではなかった。われわれ民衆が歴史の無意識として祀り上げている天皇という存在は、そのような「支配者」の姿をしているのではない。右翼は「支配者」だからありがたいといい、左翼は「支配者」だからよくないという。どちらも間違っている。天皇は長くじっさいの権力者によって「支配者」であるかのように偽装され続けてきたが、実質的にそうだったことなど一度もない。

たとえば、歴史教科書的には聖武天皇が大仏建立を祈願したということになっているが、じっさいはまわりの権力者たちがそのように偽装しただけであり、そうしないと全国から人や金を集めることができなかったからだろう。明治天皇聖徳太子は、偉大な統治者のように言われているが、とてもそれが真実だとは思えないし、聖徳太子にいたっては実在しなかったという説もある。歴史なんか、ときの権力者によっていくらでも捏造できるし、この国には捏造しても許されるような精神風土がある。

九州の山奥の小さな村落があるとき「われわれは平家の落人の子孫だ」ということにしてそれを代々伝承してゆけば、いずれはまわりからもそれが真実であるかのように思われてくる。

火焔土器」といえばなんだか呪術めいたイメージを持たれがちだが、その複雑な模様は川の流れの渦巻きやしぶきに由来しているのではないかという説もあり、縄文時代に呪術が存在していたという明確な根拠など何もない。歴史家が勝手にそう決めつけているだけであり、国家も戦争も本格的な農業もない非文明制度的な社会から呪術が生まれてくることなどありえない。呪術とは、つまるところ「自然=運命」を支配しようとする文明制度的な思考から生まれてくる作法であり、それに対して原始人は、「自然=運命」と和解しようとしていただけだろう。その、人としての率直な心映えの上に原始社会が成り立っていた、と考えるべきではないだろうか。

 

 

少なくとも原始時代の衣食住に関しては、余剰のものなど何もなかった。したがって文明社会的な支配関係から生まれてくる「搾取」や「階級」など存在するはずもなく、みんなで貧乏してみんなで助け合いながら暮らしていただけだろう。

だれも余分なものは持っていないのであれば、「交換」という行為もなかった。あるのは、親鳥が雛に餌を与えるような、「贈与=ギフト」という行為があっただけだろう。そして余剰のものはなかったのだから、それはとうぜん「自分を犠牲にして他者を生きさせる」というかたちになっていたに違いない。集団で獲得した食べ物は、まず子供や病人や老人から食べさせた。

起源としての貨幣であるきらきら光る貝殻や石粒はだれもが大切にしているものであったが、それを衣食住のものと交換したかといえば、だれも余剰のものは持っていないのだから交換しようがない。しかし「贈与=ギフト」の形見としては最高のものになった。だから、死者の埋葬に際しては、惜しげもなくそれを捧げた。2万年前のロシア・スンギール遺跡で村中のビーズの玉が死者の棺に収められていたのはそういうことの考古学的証拠であるし、古代の中国で銅銭がどんどん市場から消えていったのも、まあ同じ理由にちがいない。だから中国・台湾では、今でも葬式にはレプリカの紙幣を棺に収める習俗が残っている。

貨幣の機能の起源と本質は「贈与=ギフト」にあるし、それが普遍的な人間性でもあり、原始社会はそれによって成り立っていた。彼らは、「交換」という文明社会的な駆け引きなど知らなかった。

貨幣は、物々交換の不足を補完する道具として生まれてきたのではない。文明社会において貨幣が交換の道具になってきたことによって「交換」という観念が発達し、やがて物々交換をするようになってきただけのこと。

現在の未開の民族が貨幣を持たず物々交換しているといっても、彼らだって「交換」という観念が発達した現在の世界の一員なのだ。人と人が争ったり駆け引きしたりするようになって、はじめてそういう観念が芽生えてくる。人間世界の観念は、なんとなくいつの間にか地球の隅々まで伝播してゆく。それが人間という種の生態であり、その現象をリチャード・ドーキンスは「ミーム」といった。

今やもう、地球の隅々まで文明制度の観念に染まっているわけで、未開の民族だって例外というか無傷ではない。

とにかく原始社会には文明制度などなかったのであり、そこで人がどのように思い、どのように考え、どのように行動するかということに対する想像力が、今どきの歴史家たちにどれほどあるのだろうか。

原始社会は、文明として未熟だったのではない。文明制度そのものがなかったのだ。彼らは、今どきの歴史家が考えるような未熟な戦争や未熟な呪術をしていたのではない。戦争も呪術もなかったのであり、文明人よりももっと純粋に率直にこの生やこの世界と向き合って生きていたのだ。

縄文人ネアンデルタール人も、余分な衣食住など何もないぎりぎりのところで生きていたのであり、そのうえで奪い合っていたら、人類はとっくに滅びている。しかも平均寿命は30数年で、乳幼児の死亡率もとても高かった。それでも生き残ってくることができたのは、だれもが与え合いときめき合い助け合っていたからであり、だれもが「生きられない弱いもの」をけんめいに生かそうとしていたからだ。そうして、たくさんセックスしてたくさん子を産んでいったからだ。

「原始社会を文明社会の物差しで計量すべきではない」とは、ほとんどの歴史家がいっていることだが、そういいながら彼らの人間観や世界観は、文明社会の通念から一歩も抜け出ていない。だから原始的な戦争や階級や呪術があったといい、貨幣の本質は「交換」にあるといい、起源としての天皇は支配統治者だったという。原始人の率直で人間的な心がどのようにして集団のリーダーを選んでいたかということは、現在の文明制度にからめとられた思考回路からは見えてくるはずがない。

 

 

けっきょく原初的な心とは「生きられない弱いものを生きさせたい」という願いのことであり、それによって人類の歴史は進化発展してきた。

山本太郎は、原始人である。心が文明制度に汚されていない。ひたむきでまっすぐで、裏表がない。頼りになるかどうかはわからないが、信用することはできる。頼りにならなくてもいいのだ。信用できるのなら、安心してみんなで盛り上げてゆくことができる。盛り上げてやれば、本気で突っ走るにちがいない。それがまあ、人類普遍のリーダーの選び方で、サル山のボスとは違う。だれだって元気になりたいし、まわりとときめき合い助け合ってゆきたい。人々は、おそらくそのような気持ちで彼の演説に感動していたのだろうし、そのときだれもが原始人の心を呼び覚まされていた。

原始人の心を取り戻さなければ、現在の高度な文明社会のシステムに囲い込まれたこの閉塞した状況は変わらない。

そして、れいわ新選組のほかの候補者たちもみな、そのような気配を漂わせている。山本太郎は「本気の大人たちを選んだ」といっているが、彼のいう「本気」とは、「原始人の心」すなわち「ひたむきで純粋な心を失っていない」ということで、たいていの大人たちは文明制度に呑み込まれてそれを見失っている。

いや、若者や子供たちの心だって、現在の高度で複雑な文明制度に呑み込まれて停滞し荒廃しかかっているのかもしれない。こんなひどい世の中になってこんなにも愚劣な総理大臣が登場してくるなんて、なんと皮肉な歴史のめぐりあわせであることか。このままではこの国が沈没してしまうという声も多いが、このままでいいのだと居直る者たちが権力の中枢にいて、民衆の多くは途方に暮れている。

山本太郎とれいわ新組は、そういう途方に暮れている者たちの心を呼び覚ました。だれの心の中にも息づいている「生きられない弱いものを生きさせたい」という原初の願いを呼び覚ました。

そしてそれは、この国の天皇制の問題でもある、ということ。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

>> 

<span class="deco" style="font-weight:bold;">蛇足の宣伝です</span>

<< 

キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。

ネガティブキャンペーンの栄枯盛衰

なんのかのといっても韓国の民衆はパク・クネという大統領を自分たちの手で引きずり下ろしたし、香港では連日大規模デモが起きているし、フランスではイエローベスト運動が燃え盛っているというのに、この国の民衆はあの愚かで醜悪な総理大臣が居座り続けることを許してしまっている。それが、今回の参議院選挙の低投票率にあらわれている。べつに愚かとも醜悪だとも思っていないのだろうか。思っていても、政治なんてどうせそんなそのものだと無力感とともに冷ややかに眺めている人も多いのだろう。

僕も、いくぶんかはそう思っている。

でも、目をみはるほど魅力的な政治家が登場してくれば、そりゃあ応援したくもなる。それが、山本太郎とれいわ新選組だ。日本人にはがんばって国を変えようという気分はあまりないが、お祭り気分で盛り上がりたいというおっちょこちょいな気分はけっこう旺盛だ。けっして政治にも自分の暮らしにも満足しているわけではないが、そもそも「国家意識」というものが希薄なのだ。

われわれ民衆にとって日本列島は、「国家」というよりも、自分たちが住んでいる場所だというくらいの意識しかない。だって四方を海に囲まれて、ほかの国と国境を接していないのだもの、「国家」など意識しようがないし、「愛国心」といわれてもよくわからない。

とはいえ、現在の総理大臣をはじめとする今どきの醜悪な右翼たちは、「愛国心」といいながら、こんなにも国の品性を貶めるような言動や態度ばかりを繰り返して、よくも平気でいられるものだ。卑怯で嘘つきで傲慢で独りよがりで、醜悪そのものではないか。それでも日本人か、といいたくなる。韓国や中国だけでなく、世界中から幻滅されているということがわからないのだろうか。このあたりが島国の民族の悪しき伝統なのだ。外からどんな風に見られているかという意識がまるでない。日本人は日本人とは何かということがわかっていない民族であり、だからその不安を糧にして、外来文化を進んで受け入れてゆくし、外国人による日本人観に素直に耳を傾けてゆきもする。島国に生きてあることのその不安こそが、日本的な「進取の気性」の伝統にもなっている。

まあ世界中どこでも、ナショナリズムに凝り固まってしまうと、どうしても自分を客観視することができなくなる。そうしてそれに同調しないものはどんどん排除してゆくから、結束は強くなるが、集団の規模はとうぜん衰弱・縮小してゆく。人を思考停止に陥らせたあげくに、十把一絡げにナショナリズムという狭い箱に押し込めてしまう。「日本人に生まれてよかった」と合唱していても、十把一絡げに束ねられているだけで、ひとりひとりは孤立して横のつながりなど何もない。これはまさに現在のこの国の状況であり、新しい時代を待ち望む「進取の気性」など何もない。それでも日本人だといえるだろうか。

この国に、ナショナリズムの伝統などというものはない。ナショナリズムを持てないことの不安や嘆きやかなしみを共有しながら、その人恋しさでときめき合い助け合ってゆくのが伝統であり、それをここでは「処女性=たをやめぶり」といっている。

「処女=思春期の少女」ほど「進取の気性」を豊かにそなえた存在もいない。なぜなら、「処女」でなくなってしまうことができるのだもの。彼女らは、それをほとんど怖がっていないし、進んでその新しい世界に飛び込んでゆくことも多い。ここでいう「処女性=たをやめぶり」とは、そういうことだ。純潔だからではない、純潔という社会的正義を潔く捨てることができるからだ。

つまりナショナリズムとは「処女」という「純潔=社会的正義」にしがみついているのと同じであり、彼らは「新しい時代」を受け入れ飛び込んでゆく「進取の気性」と「潔さ」を持っていない。それでは、日本人とはいえない。

日本人とはいえない日本人たちが「日本人に生まれてよかった」と合唱している。

 

 

「やまとごころ」は「処女性=たをやめぶり」の、その「進取の気性」にある。

そして今や、古い政治体制や経済体制に抗して「新しい時代」を目指そうとする動きは世界的な趨勢になりつつあるが、外国と違ってこの国では、不満や怒りを煽ってもあまり大きな動きにはならない。

何しろ「処女性=たをやめぶり」の国だから、あまり大きな不満や怒りは沸いてこない。それよりも「新しいもの」に対するあこがれやときめきの盛り上がりが組織されてこなければならない。つまり、古い体制に抵抗・反抗するのではなく、それを置き去りにしてしまうようなポジティブな動きになることによって、はじめて何かが変わってくる。

この国の民衆の心は、新鮮な魅力に向かってときめき盛り上がってゆく。

立憲民主党をはじめとする既存の野党には、もはや新鮮な魅力はない。したがって現政権を退却させるためには、現在の野党のメンバーを総入れ替えするくらいのことが起きなければならない。そんな魅力はもはや山本太郎とれいわ新選組にしかない。だから、彼らの支持率が立憲民主党を超えて、彼らが主導して野党の再編をしなければならない。今の立憲民主党の支持率を超えることなんかそれほど困難なことでもないはずだし、越えられなければ話にならない。

次の衆議院選挙に向けて、山本太郎とれいわ新選組は、これからどのように活動してゆくのだろうか。

全国的な街宣をしっかりやってゆくというが、山本太郎ひとりでまわっても無駄だ。彼ひとりで獲得できる票数なんか、たかだか100万にすぎない。1500万票を目指すなら、チームで動いたほうがよい。ひとりでのこのこやってきて「横につながってください」と訴えても厚かましい話だ。せっかくあんなにも魅力的なメンバーを集めたのだし、彼自身がそれらのメンバーとゆるく心地よい友情でつながっていることを示すことによって、はじめて聴衆にも説得力を持って伝わってゆく。個人のカリスマ性だけでなく、「ああ、人と人のつながりというのはいいもんだなあ」と思う体験をさせてみせることによって、より大きなムーブメントになってゆく。

また、ひとりでまわっているから、「あいつは目立ちたがり屋のファシストだ」などと揶揄されねばならない。

現在の世相においてなぜ「SMAP」や「嵐」や「AKB」等のグループが大きな人気になるかといえば、横につながることが困難な世の中で、それでも横につながりたいという思いが人々のあいだで疼いているからだろう。

民衆は、ひとりの独裁者を待ち望んでいるのではない。人と人がときめき合い助け合う体験ができるきっかけを与えてくれるリーダーを待ち望んでいるのであり、そこにこそ人間社会の普遍的なかたちがある。

人類史の99・9パーセントの期間は、サル山のようなボス制ではなく、みんなでリーダーを庇護し祀り上げるということをしてきた。文明社会になってはじめて「支配統治者」という「ボス」が登場してきたにすぎない。

この国の天皇はあくまで原始的普遍的なみんなから庇護され祀り上げられている存在として歴史を歩んできたわけで、もともとそういうかたちでリーダーを選びたがる伝統があるのだ。この国の民衆は、歴史の無意識として、みんながときめき合い助け合うためのよりどころ(=象徴)になるリーダーを必要としているのであって、みんなを支配し結束させる「ボス」を待ち望んでいるのではない。

この国の民衆は、権力者に庇護されたいという望みはあまりなく、庇護されなくても仕方がない、と思ってしまうところがある。つまり権力者と民衆のあいだに、そういう「契約関係」がない。民衆が「契約関係」を結んでいるのは天皇であり、天皇はむしろ、民衆から庇護され祀り上げられている存在なのだ。

 

 

人間性の普遍としての人類社会のリーダーは、みんなに盛り立てられるような、あくまで魅力的な存在であらねばならない。それが基本であり、リーダーはまた、だれよりも深く切実に「生きられない弱いものを生きさせたい」という願いを抱いているものである。人類の歴史は、その願いを基礎にして進化発展してきた。この国の天皇が「民の安寧を祈る」とはまさにそういうことであり、そういう気配を深く豊かに漂わせている存在だから、世界中で人気があるのだろう。

この国の皇室は、毎日のように皇居内で「民の安寧を祈る」儀式をしているところであり、平成天皇は80歳を過ぎても欠かさずその儀式に立っていた。そういう日々の行いから漂ってくる気配というのはたしかにあるわけで、これを孔子は「礼」といったし、十字架のキリスト像だって究極の「民の安寧を祈る」姿として祀り上げられているのだろう。つまり、人間社会のもっとも本質的なリーダーは「生贄」であり、そうやって天皇やキリストが祀り上げられている。西洋人だって天皇を前にすれば、キリストを見ているような心地になっているのだ。

だから、山本太郎をこの国のリーダーにしようとみんなが盛り上がっている。彼は、みんなが盛り上がるための「生贄」であり、天皇だって本質的にはそういう存在なのだ。

N国党は徹底的なネガティブキャンペーンで、たしかにNHKに対する一部の国民の怒りはそうとう鬱積しているのだろうが、それが政治的に大きな広がりになるとも思えない。彼らのあの「気持ち悪さ」は今のところおもしろい見世物になっているが、なんだかその場しのぎの後ろ向きの娯楽でしかなく、「新しい時代」を切りひらくムーブメントになるとも思えない。まあ、ネガティブキャンペーンが流行する後ろ向きの時代で、その波にうまく乗っかっているということだろうか。けっきょくあの「鬼畜米英」というネガティブキャンペーンの模倣にすぎないのであり、いつの時代も権力者や権力志向の者たちはネガティブキャンペーンが好きだし、とくに新しい風だというわけでもない。こんなことくらい、現在の政府をはじめとするネトウヨたちがやっているのと同じだろう。

それに対して山本太郎とれいわ新選組の登場には、この歪んで停滞しきった現在の状況におけるまったく新しい感動があった。知識人も庶民も感動した。

N国党には「おもしろがる」ムーブメントだけがあって、「感動」などなかった。ただの憂さ晴らしなどいっときだけのことで、やがて飽きてくる。

この国では、前向きの「感動」がなければ大きなうねりにはならない。だれだって誰かとときめき合い助け合う関係になりたい……その思いを呼び覚ましてくれたのが、れいわ新選組だった。人の心の、だれかに手を差し伸べたいとかだれかを喜ばせたいとか、そういう願いは死ぬまで消えることはないし、その「贈与=ギフト」の衝動にこそ人間性の自然・本質がある。

 

 

バタイユの「蕩尽」ということでもいい。つまり「エネルギーを消費する」ということ。エネルギーがたまれば、それを消費する動きが起きてくるのは、この宇宙の法則だろう。それが「贈与=ギフト」の衝動だ。そうやって命のはたらきもこの世界の神羅万象のはたらきも起きている。

人の心の「贈与=ギフト」の衝動を組織できなければ、社会的な大きなうねりにはならない。それこそが、社会を動かす根源的な要素なのだ。

中世の一揆の首謀者たちはことごとく処刑されたのであり、それと引き換えに徳政令が出されたりした。彼らら「生贄」の役割をみずから選んだのであり、同調した百姓たちだって、女子供を飢えさせたくないという思いで立ち上がった。そこにはたらいていたのは「贈与=ギフト」の衝動だったのであり、自分のためだったらあきらめてしまうのがこの国の伝統風土なのだ。

ただの怒りや鬱憤だけなら大きなうねりにはならない。

あの東日本大震災のときだって、たくさんの人がボランティアに駆けつけたではないか。そういう「贈与=ギフト」の衝動こそ、人間社会の基礎であり究極の心のかたちなのだ。息をすることだって「エネルギーを消費する」いとなみであり、「贈与=ギフト」なのだ。

百姓一揆がそうであったように、「もう死んでもいい」という勢いがなければ大きなうねりにはならないし、「息をする=エネルギーを消費する」ことだって根源的には「もう死んでもいい」という勢いの行為なのだし、だれかに手を差し伸べたいとかだれかを喜ばせたいということもまた、必要以上にエネルギーを消費することなのだから、やっぱり「もう死んでもいい」という勢いの上に成り立っている。

「もう死んでもいい」という勢いこそ人間性の基礎であり、生きものの命のはたらきの根源なのだ。

 

 

ネガティブキャンペーンで憂さ晴らしをすることはあくまで自分が生き延びるためであり、そうやってひとりひとりが孤立してしまっているところに、現代社会の病理がある。N国党に投票した人たちには横の広がりはあっただろうか。ひとりひとりがおもしろがって憂さ晴らしをしていただけだろう。

だれもが「もう死んでもいい」という勢いで他者に手を差し伸べてゆくことによってはじめて横のつながり(=連携のネットワーク)が生まれてくるのだし、れいわ新選組にはそういうムーブメントが生まれてくる気配がある。

ポピュリズム」などといってN国党とれいわ新選組を一緒くたにして語られることも多いが、両者の性格はまったく真逆であり、新しい時代を切りひらく勢いはれいわ新選組にしかない。

NHKやマツコ・デラックスネガティブキャンペーンで憂さ晴らしをしていることと、二人の重度障碍者が国会に行ったことに感動しながらみんなで祝福していることが、同じであるはずがないではないか。

マツコ・デラックスが出演しているテレビ局に100人か200人が押し掛けて憂さ晴らしをしていること、香港の数万人の市民が視聴者に押しかけていることとのあいだには、自分の命にしがみついていることと「もう死んでもいい」という勢いで自分の命を捨てているくらいの違いがある。

「夢中になる」ということは大切だ。いつまでも「憂さ晴らし」に夢中になってなんかいられないだろう。そんなことはまあ、一回やれば気が済むだけの話だし、それを飽きずにエスカレートさせながらしつこく繰り返すとすれば、それはもう病気の範疇だ。

そういうネガティブキャンペーンヘイトスピーチは一過性のものに過ぎないことは世界の歴史が証明している。それを持続させるためには、つねに「戦争」というかたちでエスカレートさせねばならないし、「戦争」が終わったら消えてしまう。必ず消えてしまうから、権力者は、何度も何度も新しくでっち上げてくる。

 

 

現在、この国の権力者による「韓国憎し」のネガティブキャンペーンは、一定の成果を収めているらしい。まあ、売り言葉に買い言葉でおたがいの国の権力者がそうやって張り合っているし、文化や気質の伝統の違いというのもあるのだから、しょうがないという部分もある。しかし、心の底からそんな憎しみをたぎらせているのはほんの一握りだし、権力者に煽られ利用されているそういう者たちは不幸である。

けっきょくN国党だって現在の権力者のしていることを模倣しているだけであり、それに煽られている支持者にせよ、そういうネガティブな情念では、民衆によって新しい時代が切りひらかれてゆくエネルギーにはならない。

人が命がけで頑張ることができるのは「他者」のためであって、自分の憂さを晴らすためなどという後ろ向きの理由では、局地的瞬間的な激情にはなっても、社会的な大きな広がりになることも持続されることもない。

今どきの右翼勢力のネガティブキャンペーンヘイトスピーチなんて、だれもが「自分の憂さを晴らすため」とか「自分の利益のため」にやっているだけであって、「他者に手を差し伸べたい」という「ときめき」などほとんどない。

まあ、古いタイプの左翼勢力だって似たようなもので、現代社会は、人の心をそのように鬱屈させ停滞させてしまうようなシステムになってしまっているのかもしれない。個人であれ国家であれ、他者を攻撃するそんな「憂さ晴らし」など、いっときは盛り上がっても、けっきょくただの「自家中毒」にすぎない。

人間性の自然・本質は、他者に手を差し伸べようとする「贈与=ギフト」の衝動にある。それによって人類は進化発展してきたのだし、その衝動を組織できなければ大きな盛り上がりにならないし、その衝動は女や子供のもとにこそもっとも深く切実に宿っている。

たぶん、女たちが立ち上がらなければ新しい時代はやってこないのだろうし、女たちは、今どきの右翼や左翼の「憂さ晴らし」がしたいというようないじましい性根は持っていない。

大正末期から昭和初期にかけての米騒動の発端になったあの伝説的な「魚津の米騒動」は、名もない漁民の妻たちの「亭主や子供たちに米を食わせてやりたい」という井戸端会議からはじまった。

現在でも「ママ友」とか「公園デビュー」とかという言葉があるように、いつの時代も社会的な「クチコミ」の広がりの中心になっているのは女たちの「井戸端会議」であり、彼女らを魅了する政治家が登場してこなければ時代は変わらない。山本太郎とれいわ新選組は、その対象となることができるだろうか。

れいわ新選組の支持者は女のほうが多いらしい。それは、新しい時代への希望になりうる。

われわれのこの時代が、ネガティブキャンペーンヘイトスピーチに支配されたままでいいはずがない。れいわ新選組のブームは、人々の「生きられない弱いものを生きさせようとする衝動」すなわち「贈与=ギフトの衝動」を歓喜してさらに盛り上がってゆくことができるだろうか。

だれもが女子供のような「生きられない弱いものを生きさせたい」という願いを共有しながら暮らせる社会はやってくるだろうか。その願いを共有しながらゆるーく横につながってゆくこと。若者がストリートに集まってきてストリートダンスやコミケ等のグループが自然に生まれてくる。これこそが原初の人類拡散のかたちだったのであり、ゆるーく横につながってゆきたいという願いは、永遠普遍の人間性の基礎・本質なのだ。そのムーブメントが起きてくることが「人間を取り戻す」ということになるわけで。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

>> 

<span class="deco" style="font-weight:bold;">蛇足の宣伝です</span>

<< 

キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。

奇跡の美少女……愛子天皇待望論の行方

今や日韓関係はこじれにこじれてしまっているが、何かのはずみで大きく改善されたりする可能性もある。人間なんて他愛ない生きものだし、他愛なさは大切だ。

かたくなな心が解きほぐされることは、世の中にいくらでもある。

韓国人は韓国人だが、人間でもある。

日本人は日本人だが、人間でもある。

人間なんて、他愛ない生きものだ。

どちらもかたくなであるととうぜんこじれてしまうわけだが、この国にはかたくなな態度をとってもいい資格や権利があるのだろうか。多くの右翼は、あの植民地支配は正義だった、慰安婦や徴用工の強制連行などなかった、と民衆を扇動しているわけだが、強制連行があったかなかったかということ以前に、そうやって「正義」を振りかざすこと自体が醜悪なことだし、民衆もまたどうしてかんたんに扇動されてしまうのだろう。彼らは、日本人が悪いことをするはずがないのだからなかったことにしてしまいたいと思い、民衆もまたそう思いたがっている。そうやって現在のこの国は、病んでしまっている。

そう思いたければ、そう思い込むことができる……それは、知的な好奇心や探求心をすでに失っている、ということでもある。

お人好しで洗脳されやすい民族で、なんといっても「性善説」が伝統の国だから、扇動・洗脳したもの勝ちだ、ということだろうか。

性善説の国だから、歴史修正主義に走りたがるし、民衆を扇動・洗脳することもたやすくなるのだが、いっぽう、性善説の国だからこそ醜いことに耐えられないとか、理想を見失わないでいられるということもある。

天皇は、遠い昔の日本人の「魂の純潔に対する遠いあこがれ」から生まれてきたのであって、共同体の支配統治者として登場してきたのではない。

正義を欲しがるだけの今どきの右翼なんか最低だ。彼らは天皇の何たるかということを何もわかっていないし、天皇を崇拝すれば天皇に愛されると思っているのなら大きな間違いだ。天皇は崇拝されることなんか何も望んでいない。そんな執着はありがた迷惑なだけで、天皇の民衆に対する思いはあくまで一方的な、いわば「無償の愛」なのだ。だから民衆も「無償の愛」で応えるだけであり、どちらもたがいに、たとえば道端で拾ってきた子猫を慈しむような心で愛しているだけであり、人と人がそういう心でときめき合い助け合う社会でありたいという願いとともに、遠い昔の日本列島で天皇が生まれてきたのだ。

日本人はというより人類は根源において「魂の純潔に対する遠いあこがれ」を共有しながらときめき合い助け合っている存在であり、たとえ相手が嫌いであっても、コミュニケーションが成り立つ道はあるのだ。たとえ相手がそれを拒んでも、その努力をするのが天皇を祀り上げている国の民のたしなみたしなみというものだろう。

 

 

僕はここ数年、天皇の起源のことをずっと考えてきた。

起源としての天皇がどこかからやってきた支配統治者だったなんて嘘だ。

天皇は、もともとあはれではかない存在であり、今だってそうだ。

男であった、ということもおそらく嘘で、僕は「処女=思春期の少女」の「巫女」のような存在だったのだろうと考えている。「巫女」といっても、卑弥呼のような「呪術師」だったのではない。古代以前の日本列島に「呪術」などなかった。あくまで純粋な「美少女」だったのだ。民衆から庇護され祀り上げられる存在は「処女=たをやめ」こそもっともふさわしいし、これは人類史の普遍でもある。

天皇は、本質的には大陸の「王」のような民衆を「庇護(=支配統治)している」存在ではなく、民衆から「庇護されている」存在なのだ。だから歴代の権力者は天皇を抹殺することができなかったし、抹殺する必要もなかった。

したがって起源としての天皇が支配統治者であったということなどありえないし、「男系男子」も「万世一系」もどうでもいい。この国の家系図なんて、すべていい加減なのだ。途中でまったく別の血脈が混じっていようと捏造しようとぜんぜんかまわないのであり、それでも「万世一系」ということにしておくのがこの国の流儀なのだ。

天皇家だろうと武士の家だろうと、実際問題として「万世一系」なんて不可能であり、途中でまったく別の血脈になってしまうことなど何度でもあるにちがいない。

しかしそれでもかまわない。この世に天皇が存在するというその事実だけで尊くありがたいのだ。それは、この国の社会のかたちというか、人々の天皇を思う心のかたちの問題であって、極端にいえば天皇はだれでもよい。

だれが天皇にふさわしいかということは、もともと権力者が決めていたのではなく、民衆のみんなが「あの人がふさわしい」と思って決めていたのだし、もしくは天皇家に任せていたことだ。

したがって現在の次期天皇候補を民衆のみんなが天皇の娘がふさわしいと思うのなら、そうすればいいだけのことで、権力者の口出しすることであってはならない。そうして天皇の娘がだれと結婚しようと、たいした問題ではない。民衆のみんなが祝福すればそれでよい。

遠い昔の天皇制は、民主主義のよりどころとして生まれてきた。われわれ民衆は、権力者の手から天皇を救出しなければならない。

平成天皇と皇后は、私的な子育てから公的な仕事まで、できるかぎり権力社会から距離を置こうとしてきた。「象徴天皇」として、自分たちは民衆からら庇護され祀り上げられている存在である、という自覚があったのだろう。だったら今度は民衆が、その自覚に応える番ではないか。民意によって権力を動かさねばならない。権力に洗脳されてはならない。それが民主主義というものだ。

 

 

起源としての天皇は、純粋な「美少女」だった。とすれば、現在の天皇の娘は、その資格がじゅうぶんにある。まあ、典型的な古代の美少女の顔をしているし、その姿や表情が漂わせている品性のようなものは格別なものがある。天皇の弟の娘たちとは、明らかに「格」が違う。モダンな顔のつくりではないということも、その品性を高めることを助けており、彼女はもう、「品性」だけで輝いている。そういう意味で、「奇跡の美少女」という言い方さえできるのかもしれない。この先ますます「愛子天皇待望論」が民衆のあいだで起きてくることだろう。

そのとき権力者たちは、どう対応するのだろうか。「男系男子」にこだわっていたら、民衆の支持を失う。それでもそれを強引に押し通すだろうか。そのとき、この国の伝統と民主主義が試される。

天皇制は、ファシズムにもなるし、民主主義にもなり得る。そういう諸刃の剣であるのかもしれない。権力者の手に渡れば、ファシズムになってしまう。

天皇は、男であろうと女であろうと「処女=たをやめ」のような存在であるのがこの国の伝統なのだ。江戸時代の天皇なんか、毎日たくさんの女官に囲まれて遊んでいるだけだったという。それでいいのだ。そうやって完全に政治の世界から遠ざけられていたのに、それでも幕末には大きな尊王思想が起きてきた。つまり、それでも日本人は天皇の存在を忘れてしまったわけではなかった。

天皇は、日本人の歴史の無意識に深く浸透している。そして男でも女でもいいのであり、本質的には「処女=たをやめ」のような存在なのだし、「処女性=たをやめぶり」こそ「やまとごころ」の本質なのだ。

日本人は、現在の天皇の娘を祀り上げずにいられない歴史の無意識を持っている。彼女は、2000年のときを隔ててよみがえった起源としての天皇の再来なのだ。

「愛子天皇待望論」は、現在でもすでに70パーセントを超えているらしい。

現在のこの国の民衆がなぜ彼女を祀り上げずにいられないのかという問題は、もう少しちゃんと考えてみたほうがいいのではないだろうか。

 

 

このブログなどは見る人もほとんどいないから静かでいられるのだろうが、もしも著名な知識人が一冊の本として「愛子天皇正統論」を発表したら、あの「表現の不自由展・その後」のように、右翼たちからの総バッシングにあうのだろうか。

しかし、「処女=思春期の少女」を祀り上げることは、支配統治者にひれ伏すことなどよりも、人間としてはるかに敬虔で根源的普遍的な態度なのだ。

この世でもっとも崇高なものは、強大な権力なのか。だったら、天皇なんかいらない。平清盛織田信長でいいし、ヒットラーを祀っていればよい。

徳川将軍がどんなに偉くて栄耀栄華を誇ろうとも、その間の天皇がどれほど窮迫した隠遁生活を強いられようとも、天皇はいつだってもっとも崇高な存在としてすべての日本人の無意識によって祀り上げられていたわけで、そうでなければ幕末の「尊王論」など起きてくるはずがない。

人間がもっとも深く切実に祀り上げずにいられない対象は、現世的な「もっとも強いもの」ではなく、現世の外、すなわちこの世のものとは思えないような対象である。それが「愛らしく美しい処女=思春期の少女」であり「生きられないもっとも弱いもの」で、それらは文明社会が「神」という概念を発見する前は世界中で普遍的に祀り上げられていた。

人類史における「神」という概念は、文明国家の権力が世界を支配するためのよりどころとして見出されていったものにすぎない。

まあここでは、「神」という概念が普遍的な人間性の上に成り立っているとは考えていない。人類700万年の歴史の99・9パーセントは「神なき世界」を生きてきたのだ。

言い換えれば、この国の「神」は「あはれ・はかなし・わび・さび」の存在であって、キリスト教ユダヤ教イスラム教のそれのような「強く偉大な支配者」でもなんでもない。そうやって起源として天皇が愛され祀り上げられ、今なおそれが続いているわけで、この国の天皇はそういう原始的で普遍的な「神なき世界の神」である、ということだ。

したがって、この世界の愛らしく美しい生贄そのものであるかのような気配を漂わせた天皇の娘を次期天皇として待望する現在のこの国の民衆の声は、人類史の普遍的な願いの上に成り立っているともいえる。

現在の世界がもし変わろうとしているのなら、それは、人間性の自然・本質としての「小さなもの」や「弱いもの」や「はかなく愛らしいもの」を慈しみ祀り上げようとする心の動きとともに起きてくるのだろう。人としての「人間らしく生きたい」という願いはそこにこそ息づいているわけで、そのための天皇制であるのなら、べつに拒否する理由はない。

 

 

もはや、今風の政治思想や社会思想を表面的になぞっているだけでは、時代は変わらない。人間としての自然・根源・本質に立ち返り、「人間とは何か?」と問い直し、人間であることを取り戻そうとするところからしか新しいムーブメントは起きてこない。もちろん多くの人々はそれを表立って意識しているわけでもなく、それを表現する言葉を持っているわけではないが、時代の無意識として、世界的にそういう動きは起きてきているのではないかと思えるし、そういう動きでなければ新しい時代を切りひらくことはできない。

「弱いもの」たちだけで新しい時代を切りひらくことはできない。「弱いもの」であろうとあるまいと、だれの中にも息づいている「生きられない弱いものを生きさせようとする願い」が結集されて新しい時代が切りひらかれてゆく。

今回、そうやって山本太郎とれいわ新選組のブームが起きた。山本太郎ほど「生きられない弱いものを生きさせようとする願い」の純粋で切実な政治家はいないし、それは仲間の候補者たちに共通の願いでもあり、それによってとても魅力的なグループになっている。

そして、今回の選挙で投票したのは、困窮している人たちだけだったのではない。困窮していない人たちだって山本太郎とれいわ新選組の心意気に熱く共鳴していった。

「生きられない弱いものを生きさせたいという願い」は人間の本性であり、その願いを基礎にして「ときめき」や「人恋しさ」が生まれ、人と人は繋がってゆく。彼らの登場によって、人々は人間的な心を呼び覚まされた、ということだろうか。ただそれは、人間としてのそういう心を失っていたということではなく、現代社会のシステムに飼い慣らされながらだれもがそれを胸の奥に封じ込めて生きているということで、いつの時代もだれだって人間らしい心で生きていたいと願っている。そうやってこの世に芸術や哲学や文学が存在しているのだろうし、政治経済もそのためのものであってほしいのはとうぜんのことにちがいない。

 

 

資本主義とは「利益」を追求することだろうか。

今や、「リベラリズム」だって「利益」を追求している。

フランスのマクロンは、右翼のルペンに勝って大統領になったのだからひとまず「リベラル」派」といえるのかもしれないが、最近の反政府階級闘争としての「イエローベスト運動」は収まる気配がない。

マクロンだって、けっきょく資本主義のシステムに潜り込んで「利益」を追求している者でしかない。

利益を得ることは、だれかの利益を奪うことでもある。そのようにして資本主義社会が動いているのだろう。彼らは、利益を追求することが正義であり、人間の本性だと信じている。そういう社会であるのなら、貧富の格差が大きくなってゆくのは当然のことかもしれない。

だれもが利益を享受するものでありたいと願っている。

しかしそれは、ほんとうに人間の本性だろうか。

赤ん坊を育てることは、赤ん坊に利益を与えることであり、それには女親だけでなく男親だって参加するし、孤児になった子は地域で育てるということなど昔からずっとしてきて、現在でも養護施設というのがちゃんとある。家族という単位がなかったネアンデルタール人の社会だって、集団で子供を育てるのが当たり前だった。原始時代は、世界中どこでも家族というものなどなかったのだし、子供を育てることは人間社会の基礎になっていた。つまり、「利益を与える」ということが人間であることの基礎になっていたのだ。

プレゼントをすること、老人や病人や障碍者の介護をすること。物を売ることだって基本的には「贈与=ギフト」の行為であり、よりよいものを提供しないと買ってもらえない。金儲けのために芸術をしている人もいるのだろうが、お金のことなんか度外視してでもなんとか人々を喜ばせ感動させたいとがんばっている芸術家や職人はいるし、才能がある人ほどそういうがんばり方をする。人を喜ばせたり感動させたりすることは、ひとつの「贈与=ギフト」である。その関係がなければ、人間の社会なんか成り立たない。根源的には、それは「他者に自分の命を差し出す」ということだ。

どんなに「利益を得る=収奪する」ことが資本主義の原則だといっても、人類の世界にはちゃんと「贈与=ギフト」のシステムが張り巡らされている。こんなにも停滞し汚れてしまった社会において、山本太郎とれいわ新選組は、人間ほんらいの「贈与=ギフト」のシステムを再構築しようとして立ち上がった。人間復興……もしかしたらこれはまったく新しいムーブメントかもしれない。

そして、もしもあの「奇跡の美少女」が次の天皇になったら、日本人はもっと日本人らしく人間らしくなるのだろう、と思う。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

>> 

<span class="deco" style="font-weight:bold;">蛇足の宣伝です</span>

<< 

キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。